ルネサンス文化遺産の宝庫、フィレンツエをはじめとして今回訪れたシエナ、サンジミニャーノ、
ピサ、アレッツオなどのトスカーナの地方都市やペルージア、アッシジ、オルヴィエートなどのウンブリアの地方都市、そしてラヴェンナやサンマリノなどなどは、中世コムーネの時代から続く非常に独自性の強い歴史と特色ある文化と共に、色濃く中世の街並みを残している。
それらの都市は、いたるところでエトルリア文化の痕跡や古代ローマの遺跡、そしてビザンチン時代の文化財などなどにも出会うことのできた、珠玉のような街々ばかりであった。
目次
・ エトルリア人が設けた渡河地点にローマ人の植民市が生まれる
・ ルネサンス美術の野外彫刻展示場・・・ロッジャ・デイ・ランツィ(ランツィの柱廊)
● フラ・アンジェリコの美術館・・・サン・マルコ美術館(修道院)
● フィレンツェの象徴・・・サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂
・ 天国の門
・ 大聖堂本堂
・ ジョットの鐘楼
・ 大聖堂付属博物館
● ラファエロ・ファンの重要作品を展示・・・パラティーナ美術館
● ルネサンス彫刻の名品を所蔵・・・ バルジェッロ国立博物館
● 宗教建築の最高傑作・・・サン・ロレンツォ聖堂とメディチ家礼拝堂
・ 大聖堂
・ 洗礼堂
・ 斜塔
● シエナの雌狼伝説
● 美しき塔の町
Ⅵ 華麗なビザンチン文化の宝庫・・・ラヴェンナ
● 豊富に残るビザンチン時代の文化財
● アレッツォ
● ペルージア
イタリア・トスカーナ地方、ルネサンスまでの歴史
「ルネサンス文化遺産 と中世の残照」の旅程表は、☛ こちら。
「ルネサンス文化遺産 と中世の残照」のルートマップは、☛ こちら。
[2007年10月15日]
朝、成田を出発 フランクフルト経由でフィレンツェへ
フィレンツェ到着後、ヴェッキオ橋(ポンテ・ヴェッキオ)のたもとに位置するホテル『ピティパレス・アル・ポンテヴェッキオ』にチェックイン。
ホテル ピティパレス・アル・ポンテヴェッキオ(Viva Hotel Pitti Palace Al Ponte Vecchio) 泊。
[10月16日]
朝食後、フィレンツェに残るルネサンスの文化遺産を訪ね、市内を散策する
花の都・・・
ルネサンスの大輪の花、「花の都」フィレンツェ、
1400年代に、数多くの芸術家がキラ星のごとくメディチ家を取り巻き、
この町に、そして芸術史に、足跡を残していった。
彼らの遺産は今も光の中で輝く。
ルネサンスを具現化するかのようなミケランジェロの像、
アンジェリコの清らかで優美な天使達、
魅了してやまないボッティチェッリの女神たち、
ブルネッレスキの壮大なクーポラとジョットの鐘楼などなど・・・・。
数え上げることができないほどの、遺産が残るフィレンツェの小道を歩く時、
その街並みは、今もルネサンスの息吹を感じさせる。
フィレンツェ発祥の地
フィレンツェ発祥の地
エトルリア人が設けた渡河地点にローマ人の植民市が生まれる
エトルリア人が設けた渡河地点にローマ人の植民市が生まれる
フィレンツェの北北東、市の中心から道路距離にして8キロの丘の上に、フィレンツェの母と呼ばれる小さな町 フィエーゾレ (Fiesole)がある。昔も今も高級別荘地として名高く、古代の野外劇場の遺跡や中世のロマネスク式の教会などがあり、あたりの眺めもすばらしいので、訪れる人が絶えない。
フィエーゾレからフィレンツェ市街の展望
このフィエーゾレが丘の上に位置していて、守るに易く、悪疫の害をこうむることも少なそうなので、前8世紀頃にエトルリア人が町を築いたのが、フィレンツェ発祥の元になったと考えられている。このようにエトルリア人は軍事と公衆衛生の観点から丘の上に町を設けたのだが、交易のためにはアルノ川が一番渡りやすくなっている地点をも重視した。 それが今もなおフィレンツェの名物ポンテ・ヴェッキオ (Ponte Vecchio=古い橋という意味)がかかっている地点だ。
ポンテ・ヴェッキオ(ヴェッキオ橋)
フィレンツェ、ピサ、シエナなどを含む地方をトスカーナと呼ぶが、ローマ人が進出してくるまではこの地方はエトルリア人のものだった。 前3世紀になるとローマの勢力が伸びてきて、エトルリア人の諸都市もローマの同盟都市にならざるを得なくなった。前59年カエサルは摩下の軍隊から退役した兵士達に土地を与え、現在フィレンツェの中心になっているあたりに新しく植民市を作らせた。
退役兵士らは当地の最も重要な地点、つまりアルノ川の橋を押さえられるところに新しい都市を作った。新しい都市はローマの軍営の伝統に従って長方形をしており、城壁をめぐらしていた。その中心を南北に貫く大通りカルド.マクシムス(現在ののVia Roma=ローマ通りとVia Calimala=カリマラ通り)が城壁の南門を出ると、その先にアルノ川の橋がくるという設計であった。
古代のフィレンツェ植民市図
ホテルを出るとすぐ目の前にポンテ・ヴェッキオ(ベッキオ橋=古い橋)がある。 フィレンツェ発祥の地であり、その名のとおりフィレンツェ最古の橋だ。中世の橋がみなそうであったように、橋上には両側にびっしりと店が並んでいるため、歩いていて橋にさしかかっても最初のうちはそうとは感じられない。中ほどまで来て両側の店が途切れると、初めてアルノ川の水面が見え、橋だという実感が湧く。
さらにその上には「ヴァザーリの回廊 」といわれる通路がある。 これは、かつてメディチ家の専用通路として約1キロにわたり、ヴェッキオ宮殿と対岸にあるピッティ宮殿の間を、一度も地上に降りることなく結んでいた通路のことだ。
橋の両側にびっしりと店が並んでいる
両側の店が途切れると、初めてアルノ川の水面が見える
ヴェッキオ橋を渡り、「ヴァザーリの回廊」下の通路を川に沿って2~3分ほど歩くとウッフィツィ美術館に着く。
「ヴァザーリの回廊」下の通路
ウッフィツィ美術館
世界有数の珠玉コレクション・・・
ウッフィツィ美術館
イタリアのフィレンツェにあるルネサンス絵画で有名な美術館である。
ウッフィツィとはウッフィツィオ(事務所)の複数形であり、元来はトスカーナ大公コジモ1世の治世下、ジョルジョ・ヴァザーリの設計で建設されたフィレンツェの行政機関の事務所がもとになっている。 その後の歴代の統治者たちの拡張により、メディチ家歴代の美術コレクションが所蔵・展示される場所へと発展していく。
ドゥッチョ、チマブーエ、ジョットがそれぞれ描いた聖母子の祭壇画、シモーネ・マルティーニの「受胎告知」、マザッチョの「聖アンナと聖母子」、ピエロ・デッラ・フランチェスカの「ウルビーノ公夫妻」、フィリッポ・リッピの「聖母子」、その他、ボッティチェッリの「春」や「ヴィーナスの誕生」、 レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」、ミケランジェロの「聖家族」、ラファエロの自画像や「ひわの聖母」、「法王レオ10世」、デューラーの「父の肖像」や「東方の三博士の礼拝」、クラーナッハの「アダムとイヴ」などなど名作多数が各室に目白押しに並んでおり、イタリアルネサンス絵画の宝庫である。
ミケランジェロの「聖家族」
2階と3階が美術館になっているが、この旅では全50室のうち16室の主な展示作品26点を鑑賞した。
16室で観賞した26点の展示作品は☛ こちら。
ウフィッツィ美術館を出てシニョリーア広場に向かう。
ウフィッツィ美術館前広場
正面にシニョリーア広場がある
シニョリーア広場
フィレンツェの政治の中心・・・
シニョリーア広場
シニョリーア広場
12世紀末にコムーネになって以来フィレンツェの政治の中心になってきた広場である。
ヴェッキオ宮
フィレンツェ共和国の政庁舎・・・
ヴェッキオ宮
正面に高い角塔を持つ城砦のような建物がそびえている。 コムーネ華やかなりし頃は政庁、メディチ家がトスカナ大公になってからはその宮殿、1865年から70年までフィレンツェが新生イタリア王国の首都だった時代には国会議事堂、そして現在は約半分が歴史的建造物として公開され残り半分は市役所になっている建物で、14世紀の初頭にできた。 その時々の使途に応じて名称は変遷してきたが、今では古き良き時代への感慨をこめてパラッツィオ・ヴェッキオ (Palazzo Vecchio=古き館)と呼ばれている。 ゴシック式の建築であるが、内部はルネサンス時代以降にすっかり改装された。
ヴェッキオ宮
500人大広間
Author: Eusebius(Guillaume Piolle)
シニョリーア広場に立つとたくさんの彫像が目に入る。 パラッツィオ・ヴェッキオに向かって左手にはトスカーナ大公コジモ1世の騎馬像と海神ネプトゥーヌスの噴水がある(いずれも16世紀)。
ジモ1世>の騎馬像
海神ネプトゥーヌスの噴水
パラッツィオの正面にはミケランジェロの「ダヴィデ像」のコピーと、バンディネッリの「ヘラクレスとカクス」が並んでいる。 (「ダヴィデ」のオリジナルはアカデミア美術館にある)。
ダヴィデ像
ヘラクレスとカクス
ロッジャ・デイ・ランツィ(ランツィの柱廊)
ルネサンス美術の野外彫刻展示場・・・
ロッジャ・デイ・ランツィ(ランツィの柱廊)
ロッジャ・デイ・ランツィ(ランツィの柱廊)
パラッツィオ・ヴェッキオに向かって右手には壮大なロッジャ・デイ・ランツィ (ランツィの柱廊)がある。コムーネ時代ここは政治集会やイヴェントの舞台になっていたが、メディチ家支配後は彫像の展示場にかえられてしまったのである。
いろいろと彫像が並んでいるうち、注目すべきものは次の2つ。
まずはチェッリーニ作の「メドゥーサの首を手にするペルセウス」(1554年)。金工の鬼才チェッリーニの卓抜した表現力が素晴らしい。
メドゥーサの首を手にするペルセウス
次にジャンポロ-ニャ作の「サビニの女たちの略奪」(1583年)。こちらは、男女3人がもつれ合って、ら旋形を描きながら上昇していくかのような迫力ある姿に圧倒される。 どんな彫像にも正面というものがあるのにジャンポロ-ニャはそのような伝統を打破し、360度どちらから見ても鑑賞に耐える作品を打ち出したといわれる。
サビニの女たちの略奪
ロッジャ・デイ・ランツィ(ランツィの柱廊)のその他の展示品および詳細は☛ こちら。
シニョリーア広場から15分ほどの距離を歩き、次の訪問先サン・マルコ美術館(修道院)へ。
サン・マルコ美術館(修道院)
フラ・アンジェリコの美術館・・・
サン・マルコ美術館(元修道院)
サン・マルコ美術館は、建築家 ミケロッツォの傑作であり、フィレンツェの最も重要な建築物の一つに数えられる。2階建ての館内には、修道士として当修道院に居住した画家フラ・アンジェリコ が残した最も重要な板絵およびフレスコ画が保管されており、フラ・アンジェリコの素晴らしい美術館となっている。
美術館の入口を入ると「聖アントニーノの回廊」といわれる回廊があり、その4隅にはフラ・アンジェリコの 「十字架像に祈る聖ドミニコ」をはじめとするフレスコ画が描かれている。
聖アントニーノの回廊
フラ・アンジェリコの『十字架像に祈る聖ドミニコ』
その他、地上階には来客用の部屋や、旧食堂があり、フィレンツェの他の教会にあったフラ・アンジェリコの板絵コレクション等も合わせて展示されている。
他にも、フラ・バルトロメオ、ドメニコ・ギルランダイオ、アレッソ・バルドヴィネッティ、ヤコポ・ヴィニャーリ、ベルナルディーノ・ポッチェッティ、ジョヴァンニ・アントニオ・ソリアーニ等の画家の作品がある。
フラ・アンジェリコの
フラ・アンジェリコの
フラ・アンジェリコの
『キリストの十字架降架』 『リナイオーリの祭壇画』 『サン・マルコの祭壇画』
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フラ・アンジェリコの
『キリスト磔刑図』
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ギルランダイオの
『最後の晩餐』
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2階に上る途中の踊り場を曲がると、突然目に飛び込んでくる絵がある。 壁に描かれたその清らかなフレスコ画はフラ・アンジェリコが1440年から1450年頃にかけて制作した傑作、「受胎告知」だ。
フラ・アンジェリコの「受胎告知」
2階廊下の左右には修道士たちが寝泊まりしていた庵室(いおり)が並ぶ。その庵室の各部屋の壁に、アンジェリコをはじめゴッツォリ等の助手たちがフレスコで装飾を施した。
フラ・アンジェリコの直筆とされる「我に触るな」
この旅で鑑賞したサン・マルコ美術館の展示作品は☛こちら
サン・マルコ美術館のサイトは☛こちら
サン・マルコ美術館の参観を終え、サン・マルコ広場を挟んだ向かい側のレストラン、グラン・カフェ・サンマルコ(Ristorante Gran Caffe' San Marco)で昼食をとる
グラン・カフェ・サンマルコ
昼食後、すぐ近くにあるアカデミア美術館を訪ねる
アカデミア美術館
ミケランジェロのダビデ像を飾る・・・
アカデミア美術館
アカデミア美術館はフィレンツェ美術学校の美術館だ。 この美術館訪問の目的は、ミケランジェロの「ダヴィデ像」のオリジナルを見るためであった。 (ヴェッキオ宮の前に展示されているコピーについてはすでに紹介した)。
明るいクーポラの部屋の中心に立つ「ダヴィデ」(Davide)は1501~1504にかけてフィレンツェ市の依頼で製作されたもので、共和政の敵を打ち倒す正義のシンボルとして、1882年までシニョーリア広場の市庁舎前にこのオリジナルが置かれていた。
ダビデ
ミケランジェロ26歳の時の作品で、彼の代表作であるばかりでなくルネサンス期を通じて最も卓越した作品の一つである。 力強さと若い人間の美しさの象徴ともみなされる作品であり、芸術の歴史の中で最も有名な作品と呼べるのはこの作品をおいてほかにない、といわれる。 大理石で身長5,17メートルにかたどられたこの像は、旧約聖書の登場人物ダビデが巨人ゴリアテとの戦いに臨み、岩石を投げつけようと狙いを定めている場面を表現している。
アカデミア美術館の他の展示作品は☛こちら
アカデミア美術館参観後、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂へ
サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂
フィレンツェの象徴・・・
サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂
ローマ時代にこの町はフロレンティア(Florentia)と呼ばれていた。その由来については諸説があるが、現代の史家は、植民市を建設した退役兵達が単に縁起の良い名として「花咲く」「繁栄する」という意味のflorensから市名をとって、Florentiaにしたのだろうと考えている。それが少しずつ変化して現在のようにフィレンツェ(Firenze)になったわけである。
ともあれフィレンツェという市名は発足当初から「花の都」という意味合いを含んでおり、市の紋章も百合の花であった。
フィレンツェの紋章
そこでイタリア全体では約3,000にものぼる聖母マリアに捧げられた教会に、お互いに区別できるように修飾辞をつけた時、ここフィレンツェのサンタ・マリア大聖堂はサンタ・マリア・デル・フィオーレ(Santa・Maria・del Fiore=花の聖母マリア)と呼ばれるようになったのである。
大聖堂 配置図
この大聖堂は、本堂、鐘楼、洗礼堂という3つの建物に分かれている。現存している建物についていえば、最も古いのは本堂の前にある八角形の洗礼堂だ。
サンジョバンニの洗礼堂
いまサンジョバンニの洗礼堂が建っている場所には、ローマ時代、軍神マルスの神殿があったという。5世紀にその跡地に教会が建てられ、フィレンツェの守護聖人である洗礼者ヨハネに捧げられて、サン・ジョヴァンにと呼ばれた。それが11世紀に改築されて現在のようなロマネスク式の八角堂になったのである。
サン・ジョヴァンニは白大理石と様々の色美しい大理石を組み合わせて構築されており、この様式は13世紀に改築されたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の本堂とジョットの鐘楼にそのまま受け継がれている。
サンジョバンニ洗礼堂
サン・ジョヴァンニ洗礼堂の中に入ると、八角形のドームの天井いっぱいに施されている金色燦然たるモザイクの見事さにまず目を奪われる。祭壇のある西正面のテーマは「最後の審判」だ。
このモザイク画はチマブーエなどフィレンツェの画家達が下絵を書き、ヴェネツィアから招かれた職人達が14世紀初頭に完成させたものである。
サンジョバンニ洗礼堂の天井モザイク画
色大理石を駆使した壁画の装飾も見事で、中2階に婦人席のためガレリア(回廊)が設けられているが、これは11世紀にはなおビザンチン建築の影響が強かったことを物語っている。色石で様々の幾何学模様を表している床のモザイクやドナテッロおよびミケロッツォらによる「教皇ヨハネ23世墓碑」も見ものだ。
2階のガレリア(回廊)
「教皇ヨハネ23世墓碑」
天国の門
【ルネサンス美術史に名高い「天国の門」】
サン・ジョヴァンニ洗礼堂には、南北と東の3方に入り口があって青銅の扉が設けられている。
南扉はアンドレア・ピサーノによって制作された。北および東扉はともにギベルティの制作であるが、ミケランジェロがその出来映えに感銘を受け「天国の門」と評した、といわれる有名な扉は、大聖堂に面する東入口に取り付けられている。
ただし、これはレプリカ(複製品)で、パネルのオリジナルはドゥオーモ付属美術館に移され、展示されている。
「サンジョバンニ洗礼堂」および「天国の門が出来上がるまで」の詳細は☛こちら
大聖堂本堂
【大聖堂本堂】
大聖堂クーポラ
大聖堂クーポラ
サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母マリア)大聖堂の本堂の建設はアルノルフォ・ディ・カンピオの設計と監督により1296年に始まった。カララ産の白大理石にプラート産の緑大理石とマレンマ (トスカーナとラツィオの間の広大な地域を指す)産の赤大理石を配した造りは、その名の如く本当に華やいだ感じだ。本堂は奥行きが153メートルもあり、建築当時においては世界最大のキリスト教の聖堂であった(後にローマのサン・ピエトロ、ロンドンのセント・ポールに追い越されたが、なお第3位を保っている)。
1387年、ジョットの鐘楼が完成、1380年には大聖堂の身廊も完成し、1418年にはクーポラ(ドーム部分)を残すのみとなった。
ファサード(左)・ジョットの鐘楼(中)・クーポラ(右奥)
当時世界最大の大円蓋(クーポラ)の建設は、聖堂完成の最大の山場であった。
その困難な工事は公募によりブルネッレスキに委託された。工事は1420年に始まり、1461年に完全に出来上がった。これは“ルネサンス建築の幕開けとされる偉業”といわれている。
クーポラの構造に関する詳細は☛こちらを参照
大聖堂のファサード
大聖堂西側のファサードは1296年、アルノルフォ・ディ・カンビオの設計により、建設と同時に着工された。しかしカンビオの死後、その設計に基づくファサードは躯体のみが完成した状態のまま数世紀にわたり計画が実現することはなかったが、19世紀になってE・デ・ファブリにより完成された。3つの入口扉のブロンズ装飾も19世紀末のものだ。
ファサード
一方、建物側面は古く、15世紀にジョヴァンニ・ダンブロージョによって製作された『マンドルラの門』(アーモンド形装飾の扉)がある。 タンパン(扉のすぐ上のアーチの半円形の部分)には ドメニコ・ギルランダイオの「受胎告知」のモザイクが見られ、さらにその上部にはナンニ・ディ・バンコの作品、「マリアの被昇天」がある。
『マンドルラの門』
ギルランダイオの『受胎告知』
ナンニ・ディ・バンコの『マリアの被昇天』
本堂内部
大聖堂内部
大聖堂内部の装飾
内部は角柱で3廊に仕切られ、大きな空間と少ない装飾が厳格な印象で、外観の華麗さとはかなり対照的な感じだ。左の側廊の壁面には A.デル・カスターニョの「傭兵隊長ニコロ・ダ・トレンティーノ」と P.ウッチェッロの「傭兵隊長ジョン・ホークウッド」の騎馬像の大画面が並び、その先には「神曲」の本を書いたダンテの肖像も見られる。
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A.デル・カスターニョの P.ウッチェッロの ドメニコ・ディ・ミケリーノの 「傭兵隊長ニコロ・ダ・ 「傭兵隊長ジョン・ 「ダンテ《神曲》の詩人」 トレンティーノ」 ホークウッド」 |
主祭壇は大理石で仕切られ、 B.ダ・マイアーノの「十字架像」が飾られている。
B.ダ・マイアーノの「十字架像」
高さ91mのクーポラ(大円蓋)に描かれているのはジョルジョ・ヴァザーリとフェデリコ・ツッカリのフレスコ画、「最後の審判 」だ。
ジョルジョ・ヴァザーリとフェデリコ・ツッカリの「最後の審判」
放射状に並ぶ3つの後陣の間には新旧2つの聖具室が挟まれていて、入口のタンパンは L.デッラ・ロッピアの彩色テラコッタ「キリストの昇天」Ascensione(右側、旧聖具室)と「キリストの復活」Risurrezione(左側、新聖具室) で装飾されている。
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L.デッラ・ロッピアの
L.デッラ・ロッピアの
「キリストの昇天」
「キリストの復活」
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ドラム(円屋根を支える円筒状の壁)のステンドグラス6枚の下絵は、『聖母被昇天』・『ゲッセマネでの祈り』がロレンツォ・ギベルティ、 『聖母の戴冠』がドナテッロ、 『降誕』・『復活』・『昇天』はそれぞれアンドレア・デル・カスターニョ、パオロ・ウッチェロ、 ロレンツォ・ギベルティによるものである。
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ギベルティの ギベルティの
ドナテッロの
『聖母被昇天』
『ゲッセマネでの祈り』 『聖母の戴冠』
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カスターニョの ウッチェロの
ギベルティの
『降誕』
『復活』 『昇天』
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西側壁面(正面入り口扉上)には『24時間時計文字盤』パオロ・ウッチェロ作がある。この『24時間時計』は、イタリア時間を刻む現存する世界で唯一の時計で、正面扉の上に取り付けられている。
ウッチェロが制作したのは、四隅に福音書記者が描かれたフレスコ画の文字盤と、金色の流れ星のような形の針である。
イタリア時間と呼ばれる、日没から始まる24時間制を採用した時計で、反時計回りに針が動く仕組みになっている。日没を24時とし、つまり1時は日没から1時間を表す。長針、短針はなく、針は1本である。
正面入り口と『24時間時計文字盤』
『24時間時計文字盤』
入口近くの右側廊には地下のサンタ・レパラータ教会の遺構への入口がある。これは近年の発掘で現在のドゥオーモの前にあった教会の構造が明らかになったものだ。また、地下にはブルネッレスキの墓もある。
ジョットの鐘楼
[ジョットの鐘楼 ]
大聖堂の脇に、大聖堂と同じく赤、白、緑の大理石で造られた、高さ約84mのゴシック様式の鐘楼が建っている。 ジョット・ディ・ボンドーネにより設計され、建設に着手された鐘楼である。
ジョットの鐘楼
1334年、大聖堂の建設にあたって、工匠頭に任命されたジョットは、アルノルフォ・ディ・カンビオの構想にあった鐘楼の計画に専念し、すぐにその建築を開始した。しかし、ジョットは基底部分の建築が済んだ時点(1337年)で死去し、以後は弟子のアンドレア・ピサーノ、1350年以降は聖堂の建築を指揮していたフランチェスコ・タレンティが引き継いでいる。聖堂よりも100年も早い1387年に塔は完成したが、当初計画された塔頂部の尖塔は造られなかった。
象眼や 彫刻で飾られた基底部分はジョットの構想によるもので、56枚のレリーフと16体の彫刻で飾られ、どことなくアルノルフォ・ディ・カンビオによる装飾を想起させる。
ジョットの構想による基底部分
2階部分はピサーノの指揮によるもの。
ピサーノの指揮による建築部分
さらに上の3つの階はタレンティの指揮によるもの、上部に行くに従って各層の大きさが増大するようになっている。タレンティの指揮した層には、装飾的な意味しかもたない破風とねじれ柱を備えたランセット窓が取り付けられている。これらは明らかにその様式が異なるが、全体としての調和は損なわれていない。
タレンティの指揮による建築部分
鐘楼外壁の装飾はほとんどレプリカ(複製)である。オリジナルは大聖堂付属博物館に収蔵されている。
工匠頭として大聖堂建設の工事を引き継いだジョットであったが、聖堂を完成することはできなかった。 しかし、ジョットの塔とよばれるイタリアでもっとも美い鐘塔を残したのであった。
大聖堂の参観後、大聖堂付属博物館へ
大聖堂付属博物館
[大聖堂付属博物館]
大聖堂付属博物館は、聖堂の東側(クーポラ側)の道を挟んだ向かいにあり、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に関する貴重な遺物、遺産を展示している。
1891年からこれらの遺物・遺産を保存してきた建物は正面のみを残し、2016年にリニューアルされ、館内は明るい近代的な展示場に生まれ変わった。
大聖堂付属博物館
博物館には大聖堂本堂やサン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼など装飾のために作られた彫刻、絵画、装飾など、様々な美術品が展示されている。なかでも、ギベルティの『天国の門』のオリジナルや、未完成のミケランジェロの『ピエタ』、ドナテッロの『マグダラのマリア』、カンビオの「ガラスの瞳の聖母」などの貴重な作品が多く展示されている。
ギベルティの『天国の門』のオリジナルパネル
ギベルティの『天国の門』のオリジナルパネル
ギベルティの『天国の門』のオリジナルパネル
『天国の門』のオリジナルパネルは、2007年の時点ではまだ一枚づつばらばらバラバラの展示であったが、現在は以下のように扉として再生され展示されている(大聖堂付属博物館も参照)。
ギベルティの『天国の門』のオリジナル扉
ミケランジェロの『ピエタ』
ドナテッロの『マグダラのマリア』
カンビオの「ガラスの瞳の聖母」
2007年当時の「大聖堂付属博物館」に於ける主要所蔵品は☛こちら。
ここで今日の予定はほぼ終わり、シニョーリーア広場のカフェテラスで、ゆったりとティータイム
そろそろ夕暮れが近づいてきた。 ホテルへの道はウインドウショッピングをしながらたどる
途中、ヴェッキオ橋から眺めたアルノ川は、 夕日に染まり美しく輝く姿を見せてくれた
ホテルからほど近い老舗のレストラン、トラットリア・カミッロ(Trattoria Cammillo)で夕食
トラットリア・カミッロ
ホテル ピティパレス・アル・ポンテヴェッキオ(Viva Hotel Pitti Palace Al Ponte Vecchio) 泊。
[10月17日]
朝食後、市内を散策、まずはパラティーナ美術館を訪ねる
パラティーナ美術館
ラファエロ・ファンの重要作品を展示・・・
パラティーナ美術館(ピッティ美術館)は、アルノ川の西岸にあり、ヴァザーリの回廊を通じてウフィッツィ美術館と結ばれているピッティ宮殿の中にある。
ホテルを出てヴェッキオ橋を背にゆるやかな坂を3~4分ほど歩くと左手に高台を背にした壮大なパラッツォ・ピッティ(ピッティ宮殿)がある。ちなみに、その途中右手中ほどに「君主論」の著者マキアヴェッリの家があった。
パラッツォ・ピッティ(ピッティ宮殿)はブルネッレスキの設計により15世紀の中頃に作られ、ルネサンス時代のパラッツォ(邸宅)建築の傑作とされている。当初はピッティ家の住居であったが、後にメディチ家が買い取り、王宮として使用していた。
宮殿内にはパラテイーナ美術館のほか近代美術館など、計7つに及ぶ美術館、博物館が含まれているが、この旅ではパラテイーナ美術館のみを参観した。
館内にはラファエロ、ティッツィアーノ、カラヴァッジョなどの素晴らしい作品が壁面狭しとばかりにずらりと並び、とくにラファエロは重要な作品が何点もある。
ラファエロの「大公の聖母」
ラファエロの「小椅子の聖母」
ティツィアーノの「悔悛するマグダラのマリア」
観賞した作品およびパラティーナ美術館の主な展示品は☛ こちら。
パラティーナ美術館の参観を終え、シニョリーア広場から徒歩2~3分のところにあるバルジェッロ国立博物館に向かう。
バルジェッロ国立博物館
ルネサンス彫刻の名品を所蔵・・・
バルジェッロ国立博物館は市政府の高官であるポデスタ(行政副長官)の住居を兼ねた役所(バルジェッロ宮殿)として13世紀の中頃に作られた。1階にはミケランジェロの彫刻を集めた部屋があり、2階にはドナテッロやヴェロッキオの彫刻、ブルネッレスキとギベルティがコンクールの課題として制作した「イサクの犠牲」など、フィレンツェの美術の歴史に栄光を加えた作品が多数ある。
ミケランジェロの「ブルトゥス像」
ドナテッロの「ダヴィデ像」
ロッビアの「聖母子」
ギベルティの「イサクの犠牲」 ブルネレスキの「イサクの犠牲」
観賞した作品およびバルジェッロ国立博物館の主な展示品は☛ こちら。
バルジェッロ国立博物をでてサン・ロレンツォ聖堂とメディチ家礼拝堂へ向かう。徒歩で10分ほどだ。
細野夫妻はここから別行動で、最高級ワイン・ブルネッロ(バローロやバルバレスコと並び最も高貴なイタリアワインに数えられるブルネッロ・ディ・モンタルチーノ)の郷「モンタルチーノ村」と代表的なイタリアンワインのひとつキャンティ・クラシコの産地、キャンティ・クラシコ地区へ
サン・ロレンツォ聖堂とメディチ家礼拝堂
宗教建築の最高傑作・・・
サン・ロレンツォ聖堂はメディチ家の教会としてブルネッレスキーの設計で建設された。フィレンツェにおけるルネサンス初期の建築を代表する建物といわれている。
ファサードは未完のまま残されている。メディチ家出身の教皇レオ10世は、ファサード計画のためコンクールを開催し、これにはラッファエッロやジュリアーノ・ダ・サンガッロなど偉大な芸術家たちが参加し、最終的に1518年ミケランジェロにこの仕事を与えたが、ミケランジェロは木製の模型を作ったものの、完成するには至らなかったからだ。
建物本体は、教会の一番奥の後陣に、高さのあるクーポラを持つ礼拝堂、その手前の翼廊先端に旧聖具室(ブルネッレスキー作)と新聖具室(ミケランジェロ)が配置されている。またこの教会を取り巻く環境としては以上の建築物以外に図書館やメディチ家の礼拝堂などがあり、建築物以外にも多くの彫刻等にミケランジェロの作品を見ることができる。
ブルネッレスキーの「クーポラを持つ礼拝堂」
ブルネッレスキーの「旧聖具室」
ミケランジェロの「新聖具室」
身廊の主祭壇寄りには左右に2つのブロンズの説教台が見られるが、1460年代に作られたドナテッロの最後の作品である。また、右側廊のふたつ目の礼拝堂にはフィオレンティーノの「マリアの結婚」が描かれており、主祭壇の床には数種類の石でメディチ家の紋章(ヴェロッキオ作)が描かれている。
左の翼廊からは旧聖具室に行くことができる。ブルネッレスキの設計で、初めて正方形のプランが試みられた。入口を入って左側にはヴェロッキオの代表作といえる「ジョヴァンニとピエロ・デ・メディチの棺」が見られる。なお、左翼廊手前のマルテッリ礼拝堂にはフィリッポ・リッピによる「受胎告知」もある。聖堂の左脇にはA.マネッティが設計した回廊があって、一角からミケランジェロが設計したラウレンツィアーナ(ロレンツォ)図書館へ上がることができる。
ドナテッロの「ブロンズの説教台」
フィオレンティーノの「マリアの結婚」
ヴェロッキオの「メディチ家の紋章」
ヴェロッキオの「ジョヴァンニとピエロ・デ・メディチの棺」
フィリッポ・リッピの「受胎告知」
メディチ家礼拝堂
メディチ家礼拝堂
メディチ家礼拝堂は、サン・ロレンツォ聖堂に付属する、「新聖具室」と「君主の礼拝堂」と呼ばれる2棟の建物の総称で、とメディチ家の人々を祀っている。
入口はサン・ロレンツォ聖堂とは別に「君主の礼拝堂」といわれる八角形のドーム状の建物の広場に面した側にあり、入ると中は広々とした八角堂で、手の込んだ色石の象嵌細工で飾られ、17世紀にトスカーナ大公になってからのメディチ家の君主達が眠っている。
マッテオ・ニゲッティ設計の「君主の礼拝堂内部」
次が「サン・ロレンツォ聖堂」の項で紹介した新聖具室と呼ばれている建物で、ミケランジェロが設計し、同じくミケランジェロが作った彫刻群とともに彼の代表作に数えられている。入ってすぐ左側、メディチ家のロレンツォ (イル・マニーフィコの孫)の墓に配されている女性像が「曙」、男性像が「夕暮」を表し、反対側のジュリアーノ (イル・マニーフィコの子)の墓に配されている男性像が「昼」、女性像が「夜」を表している。
ミケランジェロの「ロレンツォの墓」
ミケランジェロの「ジュリアーノの墓」
サン・ロレンツォ聖堂およびメディチ家礼拝堂の詳細は☛ こちら。
昼食はメルカート チェントラーレ(中央市場)にあるフィレンツェの伝統料理店「ネルボーネ(NERBONE)」で
刻んだランプレドットをパンに挟んだパニーノ(サンドイッチ)やトマト煮込みのモツ料理トリッパに挑戦
ネルボーネ
ランプレドットのパニーノ
トリッパ
昼食の後、ミケランジェロ広場へ
ミケランジェロ広場
フィレンツェの町を一望・・・
ミケランジェロ広場
ミケランジェロ広場からはヴェッキオ橋、ヴェッキオ宮殿、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、サン・ロレンツォ聖堂など、アルノ川を渡った先のフィレンツェの中心部、さらに街の向こうにはフィエーゾレの丘を望む。
ミケランジェロ広場でフィレンツェを一望、その壮大なパノラマを楽しんだ後、ピサへ向かう
フィレンツェを出て、アルノ川沿いに車を走らせ、河口まで降るとピサに着く
ピサ
斜塔とガリレオを生んだ海洋王国・・・
ピサの大聖堂と斜塔
中世に誕生したピサの「奇跡の広場」は、
のちにガリレオ・ガリレイが
物理学上の重大な発見をした場所として言い伝えられている。
「ピサの斜塔Jとよばれる鐘塔での実験からは重力の法則が、
大聖堂の吊り燈籠の動きからは振り子の法則が導きだされたといわれている。
ただしこれは後世に伝わる逸話で、
実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。
しかし、ガリレオの死後400年近く経つ今なお、人々はその伝説にロマンを感じ、
この場所に足を運んでいるのだ。
かつて地中海にその名を馳せた海軍都市ピサは
一方で、科学史上もっとも重要な街としての栄光に輝いている。
イタリア・ロマネスク建築の最高傑作ピサの大聖堂と斜塔
イタリア・ロマネスク建築の最高傑作ピサの大聖堂と斜塔
「奇跡の広場」といわれるドゥオモ広場に建つ建物の中で、特に大聖堂、洗礼堂、鐘楼は印象的である。かつてのピサの繁栄を象徴した建物群だ。特に鐘楼はピサの斜塔として世に名高い。それぞれが別個の建築として少し離れて建っているが、互いに絶妙なアンサンブルを成し、華やかななかにも凛とした気風を備えた美しさに満ちている。イタリア・ロマネスク建築の白眉とされるわけである。
ピサはローマ時代から軍港、商港として栄え、11世紀にはジェノヴァ共和国やヴェネツィア共和国と並ぶ海洋王国として地中海に大きな影響力を及ぼした。
その11世紀の前半、ピサはイスラム軍との「パレルモ沖海戦」において大勝。それを記念し、ピサの勢威を内外に誇示するために、建設したのが、世に名高い斜塔を含むピサの大聖堂である。
大聖堂
【大聖堂】
本堂の建設は1063年に始まった。建物の構造は、上から眺めるとラテン十字の形をしており、 上下4層に及ぶ軽快にして優美な柱廊が正面を飾っている。 この建築様式は、南ヨーロッパを中心に発達したロマネスク建築の典型で、十字に交差する建築の中央に円蓋を載せた外観や、太い列柱が半円アーチを描く正面の装飾は、後年、トスカーナ地方の聖堂建築のモデルとなったという。
ピサ大聖堂ファサード
堂内には合計68本の円柱が林立しいるが、これらの多くは戦利品として、パレルモのモスクから運ばれたものともいわれ、内部装飾にはイスラム様式のアーチやビザンティン風 のモザイク画など、東方文化の影響がみられる。
大聖堂身廊
身廊のいちばん奥に下がっている大きな吊り燈篭は、ガリレオ・ガリレイが振り子の等時性を発見するきっかけになったといわれているものだが、実は発見より6年も後の1587年に鋳造されたことが記録に残っている。
ガリレオ・ガリレイが振り子の等時性を発見するきっかけとなったといわれているランプ
身廊の左わきにはジョヴァンニ・ピサーノが1311年に完成させた見事な石彫りの説教壇がある。イタリアン・ゴシックの作品の中でも最重要なものの一つといわれている
ジョヴァンニ・ピサーノの「説教壇」
後陣にかかるドームには13世紀の素晴らしいモザイクを見ることができる。マリアと洗礼者ヨハネを両脇に従えたキリストの姿を描いたもので、とくにヨハネの頭部と手はチマブーエの作といわれている。
「玉座のキリスト」
洗礼堂
【洗礼堂】
本堂の次には洗礼堂の建設が1152年からはじまった。直径35メートルの円堂で、優雅なロマネスク式であるが、ドーム部分は14世紀に造られ、ゴシック式になっている。堂内は残響が豊なことで知られ、扉を閉めて中で聖歌を歌うと、さまざまの和音が響き渡る。中央にはグィード・ダ・コモが1246年に制作した八角形の洗礼盤があり、白大理石の地に美しいモザイクが施されている。かたわらの説教壇は1260年という銘が入っているニコラ・ピサーノの作で、イタリアにおける最初のゴシック彫刻の一つである。本堂の中にある説教壇は彼の息子ジョバンニの制作。
洗礼堂内部
グィード・ダ・コモの「洗礼盤」
ニコラ・ピサーノの「説教壇」
斜塔
【斜塔】
斜塔すなわち鐘楼の建設は1173年にはじまった。全8階の造りで、1階と8階を除く中間の階は本堂のファサードと同じデザインの軽快で優美な柱廊で囲まれていて、身をくねらすように斜めに立っている。
ピサはアルノ川が運んできた土砂の上にあるため地盤が弱く、この塔は下から10メートルつまり2階にかかるあたりまで建造した時に既に傾き始めた。歴代の建築家達は何とかして傾くのを止めようといろいろ策を講じたがうまくいかず、4階から上は傾きの角度を少しずつ補正するようにして工事を進め、1372年に完成した。
本来100m以上の高さを予定されていたが、約半分の高さの約56メートルでの完成を余儀なくされたといわれている。屋上の中心点は本来あるべき点より約4メートル横にずれている。
16世紀に、ガリレオ・ガリレイによる落下の実験が行われたという伝説が残っているが、その話を裏付ける確実な記録は存在していない。
世界遺産「ピサのドゥオモ広場」は☛ こちら。
ピサの繁栄を象徴した建物群、白く壮大にして華麗な大聖堂、傾きつつも優美に建つ斜塔、宝石箱のような洗礼堂などを目に焼き付け、帰途に向かう
フィレンツェに帰着後、ヴェッキオ橋を渡って徒歩4~5分のところにあるポルチェリーノ市場前のレストラン、オステリア・デル・ポルチェリーノ(Osteria Del Porcellino)で夕食
オステリア・デル・ポルチェリーノ
ホテル ピティパレス・アル・ポンテヴェッキオ(Viva Hotel Pitti Palace Al Ponte Vecchio) 泊。
[10月18日]
朝食後、シエナへ向かう
フィレンツェを出てしばらく走ると、低いなだらかな丘陵が重なりあって続くトスーカナ地方の田園風景が、視界いっぱいに広がってくる。
濃い緑の糸杉とこんもりとした傘松の群れ、そしてそれらの間をオリーブの樹と葡萄畑が埋めている。
トスカーナの田園風景
丘陵地帯だけに、この地方の葡萄の樹は、水はけがよければ葡萄酒の出来もよくなる品種が支配的なのだという。
そういえば、昨日細野夫妻が訪れたキャンティ・クラシコ地区もこの辺り一帯だ。
1時間半ほどのドライブで、シエナのサンマルコ門前に着いた。ここでガイドと待ち合わせをしていたのだ。
サンマルコ門
中世の残照・・・
シエナのカンポ広場とマンジャの塔
雌狼伝説が息ずく街、シエナ。
中世の時代、西ヨーロッパ最大の金融街として栄えた。
その全盛時代は
強敵フィレンツェとの戦いに勝利した 13世紀半ばから14世紀末ごろまでであった。
シエナを彩る見事な建造物の多くはこの時代に作られ、
また世に名高いシエナ派絵画の頂点を成す作品もこの時代のものだ。
しかし、14世紀末半ばころからはじまり、
一説では人口の半分が犠牲になったとされる黒死病の流行により、
シエナの全ての活動は停止する。
以後、芸術活動は続けられるものの、そのきらめきを取り戻すことはなかった。
シエナは今なお、街全体が中世の佇まいを残したままなのだ。
シエナの雌狼伝説
シエナの雌狼伝説
伝説によればシエナの起源はローマの建国伝承と結び付けられている。雌狼に育てられた双子のうち、ロムルスがレムスを殺してローマを建設したのに対し、レムスの子セニウスとアスキウスは神から与えられた白馬と黒馬に乗って北方へ逃れ、この町を建設した。シエナの名はセニウスに由来する、というのだ。
この話は中世に入ってシエナが躍進を遂げたあと、市の起源に箔をつけるために作られた伝説であろうといわれている。
双子に乳をふくませている雌狼はルーパ・セネーゼ(シエナの雌狼)と呼ばれ、市のシンボルであり、市内の要所にその像をのせた石柱が立っている。
シエナの雌狼
シエナの発祥について、はっきりした文章の記述としては、アウグストゥスの時代にセーナ・イウリア(Sena Iulia)というローマの植民市が出来たというのが最初だという。
シエナが発展のきっかけをつかんだのはロンゴバルド王国の時代だ。
シエナはこのロンゴバルド王国が建設した交易路の要地として商業、金融業、手工業で大発展を遂げるに至った。
しかし14世紀末から状況が悪くなり、ヴィスコンティ家やペトルッチ家に支配され、1559年にはついにメディチ家を君主とするトスカーナ大公国に併合されてしまった。
サンマルコ門から旧市街へ入ると、目の前に中世の街並みが広がる。細い道が縦横無尽に張り巡らされ、まるで迷路のようだ。
シエナの町を特徴づけているひとつが建物に使われているレンガの色。「ローシエンナやバーントシエンナ」と言われるこれら強い黄赤色や赤褐色のレンガが町全体を染め、他の町にはない独特な雰囲気を作り出している。
中世の町並-2
バーントシエンナ色の壁
ローシエンナ色の壁
また街を散策する中で、路地の角にある建物の壁に貼り付けられている紋が目につく。シエナの中心街は17の「コントラーダ」と呼ばれる地区に分かれ、各地区がそれぞれ動物のシンボルとカラーを持っていて、地区の境界に当たる建物には、その地区の旗やタイルなどが壁に貼られているのだ。これは、「パリオ」と呼ばれるシエナ最大の祭りと密接な関係があり、シエナのもう一つの特徴でもある。
カタツムリ地区の紋
波地区の紋
亀地区(左)と鷲地区(右)の紋
シエナ発祥の地に建つ大聖堂
【シエナ発祥の地に建つ大聖堂】
大理石の横縞模様が印象的なシエナ大聖堂は、シエナ発祥の地、カステルヴェッキオの丘の上に聳えており、イタリアで最も美しいゴシック様式のファサードをもつと言われている。
大聖堂
急速に勃興しつつあったシエナの実力を示すのにふさわしい大聖堂を新築すべく、工事が始まったのは1196年で、本体は1215年に、鐘楼は1313年に完成した。
さらに、ファサードの工事は13世紀末にジョヴァンニ・ピサーノの案によって始まった。
ジョヴァンニ・ピサーノとその弟子達の手による多数の彫像が、ファサードを飾る上で重要な役割を果たしている。 これらの彫像は傷みが激しくなったため、1960年前後に大部分がレプリカと取り替えられ、オリジナルは付設のドゥオーモ付属美術館に移された。
また三角屋根の壁の華やかなモザイクは1877年に新しく製作されたもので、「聖母の戴冠」「聖母誕生」「聖母の宮参り」が施されている。
ファサードを飾る彫刻とモザイク
聖堂内部に入ると、白と黒の大理石の象嵌による横縞模様が施された身廊とドーム天井の煌びやかな装飾が印象的である。
大聖堂身廊とドームの装飾
さらに、多色大理石の象嵌が施された美しい床にも目を奪われる。床は、ルネサンス期の哲学や造形美術の主要テーマや旧聖書の物語を題材にした計56枚のパネルから構成されている。
東南側の袖廊には ニコラ・ピサーノ の手になる説教壇がある。
大聖堂の床一面に施されたモザイクの装飾
大聖堂の床に施されたモザイクの装飾
ニコラ・ピサーノの説教壇と床のモザイク
シエナ大聖堂の詳細は☛ こちら。
シエナ大聖堂の大理石象嵌による床装飾の詳細は☛ こちら。
西北側の側廊から、大聖堂と隣接するピッコローミニ図書館に入ることが出来る。入った瞬間、床、天井、壁面、すべて鮮やかな色彩で埋め尽くされていて圧倒される。
ピッコローミニ図書館の大聖堂内入口
上部フレスコ画はピントゥリッキオによる、「ピウス3世の戴冠」
ピッコローミニ図書館内部
1492年に、時のローマ教皇ピウス三世が、叔父であり、先代の教皇であったピッコローミニ家 出身の法王ピウス2世 が持ち帰った蔵書や写本を保管するため建設を命じたもので、 壁一面にピウス二世の生涯が、ルネサンス期の画家ベルナルディーノ・ディ・ベット(ピントリッキオ)と協力者のラファエロ・サンツィオやボローニャ出身の画家アミコ・アスペルチーニ 等によるフレスコ画が描かれている。 この下絵制作の段階で、ピントリッキオはピエトロ・ペルジーノ工房にいた若き日のラファエロ・サンツィオと共同制作したことが知られている。
館内に入ると目も眩むばかりの鮮やかな色彩に圧倒される。 天井は、一連の寓話的な人物、牧歌的なシーン、バッカス祭等を描いた彩りにあふれたフレスコ画で埋め尽くされており、キラキラと輝いている。中央のパネルに描かれている青十字に5つの三日月は、ピッコローミニ家の紋章だ。
ピッコローミニ図書館の天井画
さらに、周囲の壁面はピウス二世の生涯のそれぞれの場面を描いたフレスコ画で、こちらも鮮やかな色彩を放っている。 絵は「エネア・シルヴィオ・ピッコロ―ミニ、バーゼル公会議へ出発」、「フリードリヒ3世とアラゴナのエレオノーラとの出会い」、「ピウス2世がシエナの聖カタリナを聖人の列に加える」、「ピウス2世、十字軍参加のためアンコーナに到着」など 10枚のパネルで構成されている。とくに、「エネア・シルヴィオ・ピッコロ―ミニ、バーゼル公会議へ出発」の騎馬行列部分の下絵はラファエロが描いたもので、その下絵は現在フィレンツェのウッフィツ美術館で所蔵している。 また、「ピウス2世がシエナの聖カタリナを聖人の列に加える」の絵の中にラファエロとピントリッキオが描きこまれている。左下隅の二人(青いマントをはおり赤いソックスを履いている若者がラファエロ。その右、赤い帽子をかぶった男性がピントリッキオ) が確認できる。
バーゼル公会議への出発
フリードリヒ3世とアラゴナのエレオノーラとの出会い
ピウス2世がシエナの聖カタリナを聖人の列に加える
ピウス2世、十字軍参加のためアンコーナに到着
壁に配置されたガラスケースには、壮大なミサ曲と合唱曲の楽譜が保存されている。これら一連のコレクションは、15世紀のイタリアの装飾写本の歴史の代表的なコレクションだという。
楽譜の装飾写本を収めたガラスケース
楽譜の装飾写本
床は、ピッコロ―ミニ家の紋章である三日月が描かれた菱形タイルが、一面敷き詰められている。
ピッコロ―ミニ家の紋章である三日月が描かれた床タイル
ピッコロ―ミニ図書館の詳細は☛ こちら。
堂外、鐘楼方向に未完成のまま放棄された巨大なアーチの列と壁面が見える。 1339年に始まった大聖堂の増築工事が、黒死病の大流行などの災禍に見舞われて続行不可能となり、途中で放棄された建物の跡である。 この未完成に終った大聖堂の増築部分を利用して1870年にドゥオーモ付属美術館が設立されたのである。
シエナのドゥオーモ付属美術館
所蔵品の白眉はシエナの至宝、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャの祭壇画「荘厳の聖母(マエスタ)」である。
ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャの祭壇画「荘厳の聖母(マエスタ)」
また、ファサードを飾っていたジョヴァンニ・ピサーノの彫刻群(大聖堂のほとんどの彫刻はレプリカで、 オリジナルはこのドゥオーモ付属美術館に保管されている)やドゥッチョの下絵によるステンドグラス、さらにドナテッロ、ヤコポ・デッラ・ケルシアの彫刻などの傑作が展示されている。
ジョヴァンニ・ピサーノの彫刻群
ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャの下絵によるステンドグラス
ドナテッロ「許しの聖母」
ヤコポ・デッラ・ケルシアの「マドンナと聖母子像」
シエナ・ドゥオーモ付属美術館の詳細は☛ こちら。
フィレンツェやピサとは異なり、ここの洗礼堂は別の建物ではなく大聖堂の南の後陣の地下にあり、聖堂のちょうど裏側、坂を半ば下りたところにある入口(後部ファサードは未完)から入るようになっている。
洗礼堂の堂内の天井や壁面はヴェッキエッタ その他の筆になるフレスコ画で飾られ、中央にはヤコポ・デッラ・クエルチャ 作の洗礼盤(1417年)がある。
サン・ジョバンニ洗礼堂(大聖堂後部ファサード)
ヴェッキエッタによる洗礼堂天井のフレスコ画
ヴェッキエッタによる洗礼堂壁面のフレスコ画
ヤコポ・デッラ・クエルチャによる洗礼盤
洗礼堂を出て、カンポ広場に向かう。
洗礼堂を出てカンポ広場へ
シエナ旧市街の中心"カンポ広場"
【シエナ旧市街の中心"カンポ広場"】
カンポ広場
シエナ旧市街の中心はカンポ広場だ。古来の街道を受け継いでいる上下バンキ通りからちょっと下がったところにあり、 カンポとは野原を意味する。現在のような姿に整備されたのは1347年のこと。 レンガが敷き詰められ、石の帯によって9つの部分に分かれているのは、 当時ノーヴェ(9という意味)という9人制の評議会によって都市国家シエナの政治が理想的にうまく運営されていたことを象徴している。
広場は扇あるいは貝殻のような形をしており、要の位置に市役所パラッツォ・プッブリコがあって、全体としてそちらの方へぐっと傾斜している。
この傾斜は、当時のシエナの貴重な水源として雨水を集める役割があったと言われている。
カンポ広場
石の帯によって9つの部分に分かれている
カンポ広場のカフェ
広場の最たる役割とは市場の開催地としての機能がある。
また商業空間としてだけでなく、ドゥオーモに代わり条例・判決の布告さらには公開処刑など公的な権力が執行される支配空間。 さらにエルモラ、またはプーニャと呼ばれる模擬戦や貴族による騎馬槍試合などが催されるスポーツの舞台や賭博場としての社交空間という側面を持っていた。 (ただしエルモラは1262年の都市条例で廃止。
賭博も一時は禁止とされ、それが解けた後も規制と緩和が繰り返された)加えて説教の場として宗教的機能をも有し、 極めて多機能的な空間であり市民の生活の中心としての役割を担っていた。
現在、シエナのカンポ広場の最大の特徴は、伝統行事パリオ が開催されることだ。毎年7月2日と8月16日に行われ、「競馬」のイベントとして広く知られているが、そこにはシエナに住む人々の信仰心や伝統、誇り、名誉を賭けた戦いがあるのだという。
パラッツォ・プッブリコ(プッブリコ宮殿)は都市国家シエナの政庁として1288年に着工され、1320年に完成したが、その後何回か同じ様式により増築の手が加えられた。
トスカーナ・ゴシック式の世俗建築の代表例に数えられ、簡潔で力強い美しさを持っている。
現在は市庁舎およびシモーネ=マルティーニ やアンブロージオ=ロレンツェッティ など、シエナ派 の絵画を所蔵する市立美術館になっている。 1995年、同宮殿やシエナ大聖堂、カンポ広場がある旧市街は「シエナ歴史地区」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。
左端にそびえている鐘楼はマンジャの塔と呼ばれ、当市のランドマークだ。1338年から48年にかけて造られ、102メートルの高さがある。
パラッツォ・プッブリコとマンジャの塔
カンポ広場にて
カンポ広場を後に、バンキ・ディ・ソプラ通りに向かう。中世の雰囲気を保つ建物の中にブランドショップも並ぶ、シエナのメインストリートである。
フランスへと続く通商路だったこの道には、かつてシエナで勢力をもっていた有力者たちの館が今も残っている。 現存する中で世界最古の歴史を持つ銀行、モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行、トロメイ宮、 サン・クリストフォーロ教会など、この通りにはゴシック時代やルネサンス時代の建物が多く、 それがみな現代シエナ市民の生活の中にさりげなく溶け込んでいる。
バンキデソプラ通り
モンテバスキ銀行
トロメイ宮
サン・クリストフォーロ教会
ふたたびカンポ広場に戻り、マンジャの塔近くのレストラン、イル・バンディエリーノ
(Il Bandierino)で軽い昼食を摂ったあと、バスが待つローマ門へ
レストラン「イル・バンディエリーノ(Il Bandierino)」
ローマ門
シエナを後に、サン・ジミニャーノに向かう。ポッジポンシででハイウェーを降り、一般道に入る。 周囲は穏やかに起伏する丘陵地帯に、さりげない田園風景がひろがっているのだが、実に絵になる。 道はいくつもの丘のすそをめぐり尾根を越えて続いている。
しばらくすると、すぐ目の前の丘の上に、高い角塔が建ち並ぶ町が突如として現われた。サン・ジミニャーノだ。
突如現れたサン・ジミニャーノ
中世の塔の町・・・
塔の町「サン・ジミニャーノ」
サン・ジミニャーノの町の至る所に高い塔がそびえ、
古いレンガ造りの家々が寄り添うように建ち並んでいる。
12~13世紀には、フランチジェナ街道とピサーナ街道が交差する交通の要衝にあって、
特産のサフランの生産や交易により、町は莫大な富を築いた。
この小さな町にシエナ派やフィレンツェ派の名画が多数残されたのも、この時代のこと。
しかし、内乱の勃発とペストの流行、
さらにその後の通商の流れの変化などで町の発展は急速に衰えてしまった。
経済的発展から取り残され衰退した町は、
再開発の機会を失ったことで逆に数百年前の趣深い町並が
そのまま保存されることになったのである。
塔の町は、今なお中世の香りに包まれている。
美しき塔の町
美しき塔の町
サン・ジミニャーノという町の名が初めて確実な資料に出てくるのは927年のことだ。そのころの町はまだ至って小さく、直径150メートルぐらいだった。
今なお残っているベッチのアーチは、当時の町を囲んでいた城壁の門である。それから町は順調に発展し、13世紀初頭には城壁が大拡張されて全長2000メートルを超えるものになった。現存している城壁がそれだ。
13世紀に拡張され城壁
サフランの交易で大いに潤っていた13世紀、町は教皇派と皇帝派の2つの勢力に分かれての争いが起こり、両派の貴族たちは防御のためばかりではなく、富と権力の象徴として次々と塔を建て、高さを競い合った。数々の塔は権力争いの名残りであり、最も力と富を持つ者が最も高い塔を建てたのだという。
最も多いときには70本を超える塔が建っていたが、多くは取り壊され、現在残っているのは14本のみである。
生きている中世の町サン・ジミニャーノの散策
生きている中世の町サン・ジミニャーノの散策
サン・ジミニャーノの城壁には門が5つあるが、町の表玄関はサン・ジョバンニ門で、1262年に造られた。
サン・ジョバンニ門
この門から町に入り、サン・ジョヴァンニ通りを歩いて町の中心チステルナ(貯水池)広場に向かう。
道沿いには陶器、アクセサリー、キッチン用品、名物のトリュフを使ったイノシシのサラミやハム類に白ワインを売る店やレストランなどが並んでいて、 われわれツーリストを楽しませてくれる。
サン・ジョヴァンニ通り
サン・ジョヴァンニ通りの陶器店
サン・ジョヴァンニ通りのレストラン
やがて行く手の坂の上に、石落しを備えた城門が見えてくる。 ベッチのアーチだ。この町がまだごく小さかった頃の第1次城壁の門である。
ベッチのアーチ
町の中心であり発祥の地"チステルナ広場
【町の中心であり発祥の地"チステルナ広場 】
門をくぐるとチステルナ広場で、町の中心であり発祥の地でもあって、そこは13、14世紀以来の堂々たる建物に囲まれている。 広場の中央に八角形の立派な井戸(1237年)があるのは地下の貯水池からのくみ上げ口で、第2次世界大戦前まで実際に使われていたという。
すぐ隣りがドゥオーモ広場で、ここだけでも7つの塔が立ち並び、いかにも「美しき塔の町」らしい。
チステルナ広場
サンジミー八角形の井戸
チステルナ広場にて
ドゥオーモ広場
美術館のような壁画空間の大聖堂
【美術館のような壁画空間の大聖堂 】
ドゥオーモ広場の南側、ドゥオーモ(大聖堂)に隣接するパラッツォ・コムナーレ を訪ねる
ここには、リッポ・メンミの大作「荘厳の聖母マリア」をはじめべノッツォ・ゴッツォーリ、フィリッピーノ・リッピなどの名匠の手になる作品が並んでいる
パラッツォ・コムナーレ(左)とドゥオーモ(右)
リッポ・メンミの「荘厳の聖母マリア(マエスタ)」
べノッツォ・ゴッツォーリの「玉座の聖母子と諸聖人」
フィリッピーノ・リッピの「受胎告知」
パラッツォ・コムナーレを出て中庭をとおり隣のドゥオーモ(大聖堂)へ
ドゥオーモ(大聖堂)
ドゥオーモ(大聖堂)へは、脇の入口から入った。1148年に「被昇天の聖母マリア」に捧げるため創建されたこのロマネスク様式 の大聖堂は、14世紀に描かれたフレスコ画で覆われていた。
ドゥオーモ
入って右手(北側廊)には旧約聖書 の物語、向かいの壁(南側廊)には新約聖書 の「イエス の生涯」が描かれている。
旧約聖書のフレスコ画はシエナ派の巨匠バルトロ・ディ・フレディによるもので、 新約聖書のフレスコ画はリッポ・メンミによる。
バルトロ・ディ・フレディによる「旧約聖書の物語」
リッポ・メンミによる「新約聖書"イエスの生涯"」
南側廊の奥に聖フィーナ の礼拝堂があり、彼女の生涯を描いたギルランダイオ その他の素晴らしいフレスコ画で飾られている。
聖フィーナの礼拝堂
ギルランダイオの
{聖フィーナに死の告知をする聖グレゴリウス}
ギルランダイオの{聖フィーナの葬儀}
正面入口の内側にはベノッツォ・ゴッツォーリ 作の「聖セバスティアーノの殉教」(1465年)と中央部分にある左右のアーチにはタデオ・ディ・バルトロ作の「最後の審判」(1393年)があり、地獄の情景の描写がもの凄い。
ベノッツォ・ゴッツォーリの「聖セバスティアーノの殉教」
タッデオ・ディ・バルトーロの「最後の審判」
聖堂脇の回廊にある豪華なフレスコ画「受胎告知」は、色彩はギルランダイオを彷彿とさせるが、筆跡がはっきりしないため セバスティアーノ・マイナルディの作品とされている。しかし、ギルランダイオ自身がデザインしたものである可能性が高いともいわれている。
セバスティアーノ・マイナルディの「受胎告知」
ドゥオーモ(サンタ・マリア・アスンタ大聖堂)の詳細は☛ こちら
城壁に沿う遊歩道と街並み
【城壁に沿う遊歩道と街並み 】
サン・ジミニャーノは城壁に囲まれた町であるが、いくつかの細い横道を通り抜けると、城壁に沿って続く遊歩道に出ることが出来る。
丘の上に位置しているだけあって、眺めは素晴らしい。道端にテーブルを設け、美しいトスカーナの田園風景を肴にワインを飲んでいる人、ベンチでのんびり談笑する人などなど、 それぞれが思い思いに楽しんでいて、のんびりとした時の流れを感じる。
チステルナ広場から遊歩道へ
遊歩道の散策
さらに歩くと道はサン・ジョバンニ通りに突き当たった。遊歩道はここで終わり、左折れするともうそこがサン・ジョバンニ門だ。
遊歩道の終点
サン・ジョバンニ門
サン・ジミニャーノを後にし、フィレンツェへ戻る
フィレンツェ着後夕食
フィレンツェ最後の夜は、ホテルから徒歩で10分ほどと少し遠いが、老舗レストランのトラットリア アルマンド(Trattoria Almando)での食事を満喫
店内は壁一面にコムナーレ劇場 (フィレンツェ市立劇場)出演者たちの写真が並び、なかに、われわれの訪問直前の2007年9月に亡くなったルチアーノ・パバロッティのサイン入り写真もあった
トラットリア・アルマンド
ホテル ピティパレス・アル・ポンテヴェッキオ(Viva Hotel Pitti Palace Al Ponte Vecchio) 泊。
[10月19日]
朝食後、フィレンツェに別れをつげ、ラヴェンナへ向かう
朝食後フィレンツェを出発、イタリア半島の背骨といわれるアペニン山脈 を越えアドリア海 に面するモザイクの都ラヴェンナに向かう
アペニン山脈
華麗なビザンチン文化の宝庫・・・
ラヴェンナには5~6世紀 (およそ1500年前)に制作された
壮麗無比なビザンチン式のモザイクで飾られた聖堂、洗礼堂、廟などがいくつもある。
しかもそれらがみな創建当初のままの完全無欠に近い姿で残っている。
金銀や各種原色で彩られたその色彩は鮮やかで、つい最近造られたものではないかと見紛うほどだ。
東ローマ帝国の首都であったコンスタンチノーブル(現イスタンブール)にも
副都だったテッサロニキなどにも、もはやこれだけのモザイクは残っていない。
ビザンチン式のモザイクに関する限りラヴェンナはまちがいなく世界一の宝庫なのだ。
「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」として世界遺産に登録されている
初期キリスト教文化を伝える8つの貴重な建造物群は、
そのいつまでも色あせない色鮮やかなモザイクで人々を魅了している。
豊富に残るビザンチン時代の文化財
豊富に残るビザンチン時代の文化財
現在のラヴェンナは他の点ではあまり特色のない地方都市なのに、素晴らしいビザンチン時代 の建造物がいろいろと残っている。
今では海岸から10キロも内陸に位置しているラヴェンナだが、古代にはアドリア海 に臨む港町であった。 歴史に名高い事件としては、 ユリウス・カエサルがルビコン川 を渡る前に、しばしラヴェンナで軍団を休養させたことが記録に残っている程度だ。
ラヴェンナは、 西ゴート族によるローマ侵略の後、西ローマ帝国、そして 東ゴート王国の首都、さらには東ゴート王国を滅ぼした 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が総督府を置いてイタリア統治の拠点にした都市であった。
創建時のクラッシス港の土台
402年皇帝ホノリウス が、ミラノから防衛の容易なこの街にやってきた時には、すでに良港クラッシスを要する交易都市として栄えており、 751年まで西の首都であり続けた。
今日残る聖堂や礼拝堂は、この繁栄の時代に西ローマ帝国の皇妹皇母 ガッラ・プラキディア、東ゴート王国の王 テオドリック、 東ローマ帝国・ ユスティニアヌス1世時代のラヴェンナ司教 の活動によって建設されたものである。
しかし、8世紀末になるとラヴェンナは政治的重要性を失い急速に衰退したうえ、その後も歴史の表舞台に立つことはなく、 経済活動も活発ではなかったので建て替えもほとんど行われず、当時の建築・美術が豊富に残ったのである。
ラヴェンナに到着後、でバスを降り、 を左に見ながら市街に入り、ガッラ・プラチディア廟へ
モザイク芸術の頂点、ガッラ・プラチディア廟
モザイク芸術の頂点、ガッラ・プラチディア廟
ガッラ・プラチディア廟
外観は質素な煉瓦造りの家で、ポツンとそこに置き忘れられたようなたたずまいだ。
木の扉を開けて中に入ると、内部は深い瑠璃色のモザイクに彩られた幻想的な世界がひろがっており、金の十字架とそれをとりまく星が天井で輝いている。
ガッラ・プラチディア廟は、5世紀にテオドシウス1世 の娘でありホノリウス 帝の異母妹でもあるガッラ・プラチディア により建てられた。
ラヴェンナで世界遺産に登録された、8つの初期キリスト教建築。中でもモザイク芸術の頂点を極めたのが、ガッラ・プラチディア廟だといわれている。 見る者との距離を計り、巧みに視覚効果を考えた、19世紀の印象派を想わせる色の世界だ。 セザンヌ やクリムト は、何度もこの街を訪れ、モザイク技法を作品に採り入れたのだそうだ。
天井を覆っている紺地に唐草模様のようなモザイク、入口側のにある「良き羊飼い」のモザイク、 中央のドームを支えている壁面にある「水を飲む鳩」のモザイクはことに美しい。
正面奥のには「鉄格子の上で火ぶりにされて殉教した「聖ロレンツォ 」のモザイクがある。
学者の中には、ガッラ・プラチディアが本当にここに葬られたのかどうか疑問視するものもいる。
しかし、ガッラ・プラチディア廟の名で広く知られているこの小堂の、たとえようもなく優雅で美しいモザイクの真価に変わりはない。
瑠璃色にすっぽり包まれたガッラ・プラチディア廟の幻想的な内部空間は、今までに感じたことのない不思議な居心地だった
ガッラ・プラチディア廟を出て、隣に建つサン・ヴィターレ聖堂に向かう
サン・ヴィターレ聖堂の精緻を極めたモザイク
サン・ヴィターレ聖堂の精緻を極めたモザイク
サン・ヴィターレ聖堂
サン・ヴィターレ聖堂は6世紀前半の建築で、東ゴート族 の テオドリック王の時代に着工され、ビザンチン帝国 時代に入ってから完成した。
堂内の中心に立つと、聖堂というよりは豪壮華麗な宮殿のよう。
堂内の壁面は美しい縞模様を持つ色大理石で化粧張りされ、漆喰細工やモザイクで飾られている。 柱にもふんだんに縞模様の大理石が用いられ、柱頭にはビザンチン式 のレースを思わせるような装飾が彫刻され、床一面には、色石を豊富に使った象眼細工が施されている。
内陣とその近傍の壁面や天井を飾っているモザイクは精緻を極めている。中でも名高いのはつぎの2場面だ。 1つは内陣の左側壁にある皇帝ユスティニアヌスと聖俗の臣下たち、もう1つは右側壁にある皇后テオドラと廷臣や侍女たち。
皇帝ユスティニアヌスと聖俗の臣下たち
皇后テオドラと廷臣や侍女たち
サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂へ向かう途中、ポポロ広場を抜けてダンテの墓を訪ねる
ポポロ広場はラヴェンナの中心部にある。ガッラ・プラチディア廟をはじめ今回訪れた各聖堂は、サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂以外はどれも、ここを起点にして500メートル以内。徒歩でも回れる範囲だ。
サン・ヴィターレ聖堂からポポロ広場へ向かう
ポポロ広場
詩聖ダンテが政争に巻きこまれ、フィレンツェを追われ、流浪のすえ落ち延びた果てがラヴェンナだった。 彼にとってラヴェンナは安住の地となり、ここで『神曲』を完成させた。
ダンテの墓
サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂の物語性豊かなモザイク
サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂の物語性豊かなモザイク
サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂
テオドリック王 によって6世紀初頭に造営され、王宮付属礼拝堂の役をも果たしていた。高さ38.5メートルの円筒形の鐘楼は11世紀初めに、ルネサンス式 の前廊は15世紀に付け加えられた。
サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂には物語性の豊な興味深いモザイクがある。
堂内に入ると、そこは典型的なバジリカ式の建築空間だ。長方形の身廊の両側に石柱が並び、身廊の全長にわたって左右の壁面にモザイクが続いている。
一貫した物語を構成しているモザイクが長大な壁面を占めて連続しているという点において、ラヴェンナでも随一だ。しかも一つ一つの図像になんともいえぬ滋味があり、全体として驚嘆すべき効果をあげている。
壁面は上中下の3段に分かれ、上段は高窓と天井の間である。左側はイエスの布教時代の物語。ペテロとアンデレの召命、脚萎え(/span)を癒す話、パンと魚の奇跡など、福音書でお馴染みの情景が次々に登場する。
ペテロとアンデレの召命
脚萎えを癒す話
パンと魚の奇跡
最後の晩餐
復活
中段は高窓の間で、預言者や聖人たちの像が並ぶ。
預言者や聖人たちの像
下段は列柱上のアーチと高窓の間で、床に立っているわれわれから見やすい位置にあるため、最も迫力がある。左側は、まず入口のところにクラッセの城と港の情景。
クラッセの城と港の情景
続いて殉教した22人の聖処女たち。衣装のデザインが一人ずつみな違い、たわわに実を結んだナツメヤシや草花がまわりを飾っている。
殉教した聖処女たち
そして星に導かれて東方からやってきた3人の博士たちが、幼子イエスを膝に抱いた聖母マリアに捧げ物をしている。
3人の博士たちと幼子イエスを膝に抱いた聖母マリア
右側は、まず入口のところにテオドリック王の宮殿。
テオドリック王の宮殿
続いて殉教した26人の聖人たちが、玉座につく救世主キリストに向かって進んでゆく。
殉教した26人の聖人たちと玉座につく救世主キリスト
サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂参観後、市街から南へ約8キロほど離れたサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂へ向かう
ところで、ラヴェンナにはサンタポリナーレを名乗る聖堂が、前記サンタポリナーレ・ヌオーヴォとこのサンタポリナーレ・イン・クラッセのふたつある。その由縁は☛こうだ。
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂の牧歌的なモザイク
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂の牧歌的なモザイク
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂
クラッセとは古代のクラッシス、つまり皇帝アウグストゥス が軍港を新設した場所である。
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂の周りは広々とした緑野で、その一角にアウグストゥスが造った軍港があったことを記念して 彼の像が立っている。ラヴェンナに初めてキリスト教を広め、ここで殉教した 聖アポリナーレ の墓の上に建てられたのがこの聖堂である。
現存するで最も美しいものの一つといわれる堂内に入ると、 両側に石柱がずらりと並んで身廊 と側廊 に分かれ、典型的なバシリカ式になっていることが分かる。
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂内部
内陣の部分を除けばキリスト教的な装飾がほとんどなく、 極めてあっさりした感じだ。
アプスの半球型の天井の装飾は、2つの部分に分けられる。上部は
「タボル山で変容するキリスト」が表されており、大きな円盤が星空を囲み、その中に十字架とキリストの顔がある。
十字架の上には、祝福を垂れる神の右手、十字架を囲む円盤の両側には右にエリヤ、左にモーセが描かれている。
さらに下方には3頭の子羊がいるが、これはペテロ 、ヤコブ 、ヨハネ の聖徒を象徴している。
タボル山で変容するキリスト
下部は 聖アポリナーレ を中心にして牧歌的な緑の大地がモザイクで表されている。羊たちは信者を表す。
聖アポリナーレと羊たち
内陣の上部壁面中央には、キリスト、その左右に四福音書記者のシンボル(聖マタイ・羽を持った人物 、 聖マルコ・ライオン、 聖ルカ・雄牛、 聖ヨハネ・ワシ)が見える。 その下にはエルサレムとベツレヘム(左端と右端の城壁都市)から出てタボル山に登ってゆく12頭の羊が見えるが、それは十二使徒を表している。
内陣上部壁面の装飾
ずっと下がって、アプス の半円形に窪んだ壁面にはラヴェンナの4人の司教たちが描かれ、その左わきにはビザンチン皇帝コンスタンティヌス4世 と侍臣たち、右わきには旧約聖書 にでてくるアブラハム とイサクの供犠 の場面などがある。
4人の司教たち
コンスタンティヌス4世と侍臣たち
アブラハムとイサクの供犠
全体として非常に色彩が美しく、人物の表情にはモザイクとは思えぬほどの生気がみなぎっているのが、このサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂の モザイクの特色だ。また、アプスの天井の牧歌的な情景は他に比類がない。
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂に隣接するホテル クラッセンシス (Hotel Classensis)のカフェテリアで軽い昼食をとる
Photo credit: E.Agematsu
昼食後、ラヴェンナを後にし、サンマリノに向かう途中、ルビコン川 を渡る
ルビコン川を渡る
ルビコン川を渡る
ルビコン川。小さな川だが、古代ローマの2,200年(東ローマ=ビザンチン帝国を含む)を超す歴史の中でも特筆されるほど知名度が高い。
ユリウス・カエサル が軍を率いてこの川を渡ったという故事にちなむ「ルビコン川を渡る」という成語は、 その時のカエサルの「賽は投げられた」という言葉とともに知られている。
カエサルの胸像(ルビコン川橋上)
「ルビコン川を渡る」という成語の詳細は☛こちら
中世のコムーネが生き残った独立共和国・・・
Photo credit: Max Ryazanov
イタリア半島からバルカン半島にかけての地域には、
ローマ時代から数多の群雄が割拠してきた。
そんな中にあって301年から独立を守り抜いた国がサンマリノだ。
天然要塞ティターノ山にはいまでも堅牢な城砦と歴史地区が残されており、
眼下にまっ青なアドリア海を見下ろしている。
古代より、イタリア半島には全体をまとめる「国」は存在せず、
それぞれの都市が共和国や王国を名乗って「都市国家」として独立していた。
ローマ、ピサ、ジェノヴァ、ミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィアなどがその一例だ。
こうした都市国家がイタリア王国としてまとまることができたのは、
イギリス、フランス、ドイツ、オーストリアのような強力な「帝国」に
対抗する必要があったからだ。
近世になり、イタリア王国がイタリア半島のほとんどを統一したあと、
イタリアも帝国主義の道を歩むことになる。
しかしそうした政策に背を向けて、「自由」のためにひたすら独立を守ったのだ。
サンマリノは、中世的な都市国家の様相を色濃く残しているだけでなく、
その街並みが世界最古の共和国とも言われるこの国に息づく
伝統と密接に結びついていることが評価され、
「サンマリノの歴史地区とティターノ山」として、2008年、ユネスコの世界遺産に登録された。
サンマリノは、ラヴェンナの東南方、約80キロの山中にある。世田谷区よりやや大きい程度だが、れっきとした独立国だ。 そして現存している共和国としては世界最古という歴史を誇っている。
伝承によれば、301年、イタリア半島の対岸ダルマツィア地方(現・クロアティア)出身の石工マリーノが、 ローマ皇帝 ディオクレティアヌスによるキリスト教迫害から逃れ、この地で信徒と信仰の自由を謳った共同体がこの国の起源だという。
独自の歴史と文化を育くみ、自由と独立を守り続けたこの国は、1631年にローマ教皇により独立的地位を認められる。
ゆえに人々は自分たちの手で守り抜いた自由への誇りを持っている。国旗には主権を象徴する王冠とその下には、「自由(LIBERTAS)」 と書かれていることからもそれがわかる。
サンマリノの国旗
サンマリノに近づくと、切り立ったような岩山のてっぺんに城塞や教会の塔が見えてくる。 岩山の向こう側に回りこむと急峻ながらも斜面が開けていて、車は七曲の道を登りきり、旧市街を囲んでいる城壁のローコ門の下につく。
城壁のローコ門
城門をくぐって旧市街に入ると、家々がひしめき合うように並ぶ迷路のような坂道を登る。
迷路のような坂道
細い道の両側には土産物屋が並ぶ。意外に立派な感じの家々が立ち並んでいるが、それもそのはず、この町では19世紀に改築ブームが起こり、 それまでは古色蒼然としていた家々がだいぶ手直しされてしまったのだそうだ。
両側には土産物屋が並ぶ
19世紀に改築された家並み
坂道を登りきると、突然目の前が開ける。旧市街の中心、リベルタ広場だ。 正面に、 ゴシック・リバイバルの政庁パラッツォプッブリコ がそびえている。ちなみに、サンマリノは「世界最古の共和国」というように、政治的にも中立・平等が重視されている。選挙によって議員が選ばれるのはもちろん、 議会によって選ばれる元首である執政官は二人いて、しかも任期はたったの6か月。こうしたシステムは13世紀にはすでに完成していたようだ。
リベルタ広場とパラッツォプッブリコ(正面)
さらに登っていくとサン・マリーノのバシリカがあり、聖マリーノの遺骸が祭壇の下に安置されている。 その右隣のサン・ピエトロ教会の地下には、石工マリーノとその友レオが起居していたという2つの壁龕がある。
サン・マリーノのバシリカ
サン・ピエトロ教会
サンマリノは標高739mのティターノ山に守られた天然要塞だ。歴史地区は城壁によって囲われていて、3つの要所に城砦が築かれている。 それぞれから、サンマリノの美しい田園風景を見渡すことのできる。 それらのうちのひとつ、グアイダの城砦に向かう。ここは、一時期内部は牢獄として利用されていた。
グアイダの城砦
グアイダの城砦からの眺め
サンマリノを後にし、アレッツオへ
サンマリノからアレッツォへの道は、曲がりくねった外灯もない真っ暗な山道だ
ラヴェンナを発ちサンマリノに向かう途中、ルビコン川を散々探し回ったため、大幅に時間を費やし、サンマリノを発つときは既に日が暮れていたのだった
ようやくアレッツオに到着、外は肌寒く、小雨が降っていた
先ずはホテルにチェックインした後、夕食にでる
ホテルから歩いて2~3分のところにある肉料理の名店、トラットリア・ラヴィーニャ(Trattoria La Vigna) にて夕食
トラットリア・ラヴィーニャ
トラットリア・ラヴィーニャ店内
カヴァリエレパレス (Cavaliere Palace) 泊。
カヴァリエレ パレス ホテル
(現、ホテル アレティーノ)
[10月20日]
朝食後、アレッツオの街を散策、文化遺産を訪ねる
エトルリア時代の古都・・・
アレッツォとペルージア
アレッツォ
アレッツォ
映画『ライフ・イズ・ビューティフル 』の舞台として知られるアレッツォ。
小さいながらもその歴史は紀元前、エトルリア 時代まで遡り、
古代ローマ 時代には、戦略拠点として重要な位置を占めていた。
中世には自治都市として栄え、ルネサンス 文化が花開いた。
街を見下ろすように築かれたメディチ要塞がその栄華を物語っている。
「万能の芸術家」ヴァザーリ 、「イタリアの代表的詩人」ペトラルカ
そして「音階のドレミ・・の発明者」グイド・モナコ等を輩出した街アレッツオは、
いまなお、ルネサンスの香り漂うトスカーナの古都なのだ。
アレッツォの町の起源は紀元前6世紀までさかのぼる。小高い丘の上に起こった未来の“Arretium”、つまりアレッツオは古代エトルリア文明の12都市国家の一つになるほど栄えた。 現在のアレッツォは中世の面影を残した、こじんまりとした街だ。駅前通(グイド・モナコ通り)を少し歩いた ところに小さな広場があり、グイド・モナコ の銅像が立っている(グイド・モナコ広場)。カヴァリエレ パレス ホテル(現、ホテル アレティーノ)は、この広場のすぐ近くにある。
ホテルを出発、緩やかな上り坂を進み、ヴァザーリの家(現在は美術館)を目指す。途中、ヴァザーリ にゆかりの深いサンテ・フローラ・エ・ルチッラ教会に立ち寄る。
サンテ・フローラ・エ・ルチッラ教会
教会の建設は1278年に始まり、1315年には隣接する修道院が建設された。回廊(1489年)はジュリアーノ・ダ・マイアーノ が設計した。
教会は1565年からジョルジョ・ヴァザーリの設計で再建され、1650年に鐘楼と司祭室が完成。聖堂内陣にはヴァザーリが家族のために設計した祭壇(1563年)がある。
緩やかな坂道
サンテ・フローラ・エ・ルチッラ教会
ヴァザーリ設計の祭壇
サンテ・フローラ・エ・ルチッラ教会を出てさらに坂を上り、ヴァザーリの家へ。
ヴァザーリの家(美術館)
ヴァザーリの家(美術館)入口
ジョルジョ・ヴァザーリは美術史学の「父」ともいわれ、ルネサンス期の芸術家の評伝を執筆した。
われわれが現在手にしているルネサンスの芸術家に関する情報の半分以上は、彼が著した「画家・彫刻家・建築家列伝」からのものである。 これは、美術史の基本資料ともなっているのだ。彼は、著述家としてのみならず画家、建築家としても活躍した。
ヴァザーリの家(美術館)は、ヴァザーリが自身で内装を手掛け、天井のフレスコ画による装飾も自らの手で描いた。 この家は、1911年からはイタリア国家の所有となり、アレッツォとトスカーナのマニエリスム 研究における中心的役割を担う美術館となっている。
ヴィーナスの石膏像(バルトロメオ・アンマンナーティ作)
が飾られた暖炉の間
ヴァザーリの家(美術館)館内
ヴァザーリ作 天井のフレスコ画
ヴァザーリの家を出て、4~5分歩くとサン・ドメニコ広場に出る。その広場の奥にサン・ドメニコ教会がある。
サン・ドメニコ広場
サン・ドメニコ教会
サン・ドメニコ教会
サン・ドメニコ教会は、アレッツォで最も有名な建物のひとつで、内部には13世紀絵画の傑作のひとつとされるチマブーエ の描いた「十字架上のキリスト」がある。 これは、木にテンペラと金で描かれており、 1268年から1271年頃のものと考えられている。
チマブーエは、キリストの体が描かれたものではなく、ほとんど木彫りの彫刻であるかのような錯覚を与えるために、 強い「明暗法」を用いることによって、 驚くほどの造形的な隆起を与えようとしている。これは、ビザンチン様式 からの脱却を図ったチマブーエの最初の作品である。
チマブーエのテンペラ画
「十字架上のキリスト」
サン・ドメニコ教会の参観を終え、広場左手の細い坂道を上り、トスカーナ大公フェルディナンド3世 の銅像が建つ小さな広場の急坂をさらに上ると大聖堂広場に出る。
トスカーナ大公フェルディナンド3世像
大聖堂
大聖堂
アレッツォ大聖堂はサン・ピエトロの丘の頂にあり、かつてここには初期キリスト教会の聖堂があった。また、古代都市のアクロポリス であったとも考えられている。
大聖堂内部
13世紀後半に建てられたゴシック様式の大聖堂は、ギョーム・ド・マルシヤ の見事なステンドグラスで装飾されており、 ピエロ・デラ・フランチェスカ の美しい「マグダラのマリア」のフレスコ画が飾られている。また、中央礼拝堂にある大きな大理石製の祭壇画は、「聖ドナートの石棺」と呼ばれ、14世紀後半のアレッツォやフィレンツェ、シエナ出身の芸術家たちの集大成とも言える作品である。
ギョーム・ド・マルシヤのステンドグラス
ピエロ・デラ・フランチェスカの「マグダラのマリア」
「聖ドナートの石棺」
大聖堂の筋向いにはアレッツォ市庁舎がある。市庁舎は、1333年にプリオーレ(行政長官)宮殿として建設された。
宮殿の屋上にある王冠状の 狭間は、ツバメの尾の形をした で飾られている。
市庁舎
大聖堂広場を中心に、坂道が放射状に降りている。そのうちの一つをグランデ広場に向かって下る。40~50mほど下ると、ペトラルカ の生家(現在は博物館)がある。
ところで、ペトラルカの生家の前の道路に、いわくありげな古井戸があったので調べてみた。言い伝えでは、それは“トファノの井戸”といい、 詩人ボッカッチオ の「デカメロン 」に出てくる井戸だ、と言い伝えられていることが分かった。
ペトラルカの生家
ペトラルカの生家の前にある“トファノの井戸”
デカメロン“トファノの井戸”の
伝聞を記したプレート
Photo credit: minube
トファノの井戸 |
そこからさらに急坂を降ると、グランデ広場に通ずるロッジア宮殿だ。1572-95年、ジョルジョ・ヴァザーリの設計を基に、広場に面して巨大なロッジア宮殿が建てられた。 その回廊を通りグランデ広場に出る。
グランデ広場に向かう回廊
グランデ広場
グランデ広場は、映画「ライフ・イズ・ビューティフル 」の舞台にもなった場所として知られている。
イタリアで最も美しい広場の一つとも言われるグランデ広場は、中世の香りが色濃く残る場所でもある。 「ヴァザーリの広場」とも呼ばれ、その名のとおり北側はヴァザーリの設計による「ロッジアの宮殿」で占められている。 中世には青空市場として利用されていたが、現在でも骨董市が開かれている。また、中世に行われていた槍の競技を再現した「サラセン人の馬上槍試合」も年2回開催されている。
広場はこの「ロッジアの宮殿」を頂点に緩やかな下り勾配になっていて、四方を中世の歴史建造物に囲まれている。 広場の北側は16世紀末期に建てられたロッジア宮殿が、西側には、ロマネスク様式の特徴が残るピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会の後陣、 そして、その横に建つ元裁判所(18世紀)を挟んでフラテルニタ・デイ・ライチ宮殿(14~16世紀)が建っている。東側には木製バルコニー付きの中世の典型的な邸宅が並んでいる。
グランデ広場
正面左から、ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会の後陣、
元裁判所、フラテルニタ・デイ・ライチ宮殿
右、ロッジアの宮殿
グランデ広場 東側、中世の邸宅
広場に面したサンタ・マリア・デッラ・ピエーヴェ教会の後陣脇の道を建物に沿って進むと、教会の正面に出る。
サンタ・マリア・デッラ・ピエーヴェ教会
12世紀の中頃に建設がはじめられたサンタ・マリア・デッラ・ピエーヴェ教会は、ピサ・ロマネスク様式の 好例として知られている。とりわけ、ファサードは入口を囲むアーチとその上に3層のアーケードで飾られた ピサルッカ様式 で、上部に行くにしたがって小さくなるアーケードの柱の間隔が建物に軽快なリズムを 与えている。中央入口の扉の周囲を囲む見事な彫り物の中でも、半円筒形のを飾る彩色彫刻「各月の象徴」はひときわ目を引く。
サンタ・マリア・デッラ・ピエーヴェ教会
ファサードとアーケード
中央入口扉ヴォールトの彫刻
「各月の象徴」
正面右端には重量感あふれる鐘楼(地元では「百穴の鐘塔」と呼ばれている) が建ち、内陣は同教会の中でも最も古い部分で、 主祭壇にはピエトロ・ロレンツェッティ の手になる「聖母子と聖人達」の荘厳な多翼祭壇画(1320年)がおかれている。
「百穴の鐘塔」
教会内部
ピエトロ・ロレンツェッティの多翼祭壇画
「聖母子と聖人達」
教会の後陣外部(グランデ広場に面している)の下の回廊の左側をよく見ると、この曲がった柱に気がつく。 なぜ、この円柱だけがこのような曲がった形で表現されているのだろうか?
これを説明する歴史的な資料はない。
ただ、後陣が作られたとき、それは完璧に近いほど優れたものだったという伝承がある。 完璧さは神のものであるから、この作品をより人間的な次元に戻すために、不完全な要素を導入することにしたのだ、と伝えられている。
サンタ・マリア・デッラ・ピエーヴェ教会の後陣
曲がった柱
サンタ・マリア・デッラ・ピエーヴェ教会の参観後、アレッツォ最後の訪問先サン・フランチェスコ教会へ向かう。
サン・フランチェスコ教会
カフェが並ぶ小さな広場サンフランチェスコ広場の前に13世紀から14世紀の間に建てられたサン・フランチェスコ教会がある。
石とレンガを使ったシンプルなゴシック様式の建物で、未完成の正面ファサードが印象的である。
簡素な教会ながら、内部は数々のフレスコ画で飾られている。
なかでも、ピエロ・デッラ・フランチェスカ による一連のフレスコ画「聖十字架伝説」は彼の最高傑作の一つで、イタリア・ルネサンス芸術の一頂点をなすとも言われる。
チマブーエ の弟子のマエストロ・デル・コルシの作とされる。
フランチェスコ教会正面ファサード
教会内部
ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画
「聖十字架伝説」
アレッツォを発ち、ペルージアに向かう。
ペルージア
エトルリア12都市の一つ、古都ペルージアの発祥は、
紀元前9世紀にまでさかのぼる。
そこには、さまざまな時代を超えた歴史がある。
街の壁やアーチはエトルリア時代のもの、
6世紀のサンタンジェロ教会はローマ時代の神殿の上に建てられたもの、
街の大聖堂はゴシック様式とルネサンス様式の両方を備えている。
また、中世の街並が残るペルージアは歴史ある大学街としても知られ、
街の周りには美しい田舎風景が広がっている。
ペルージアはアレッツォの南東約70キロにある。紀元前9世紀頃、ウンブリア人の町として生まれ、 後にエトルリア 12都市の一つに発展したが、紀元前310年にローマの支配に服した。 その2000年以上前の歴史の跡がまだ残る街には、現在も街の周囲をめぐる城壁や城門にエトルリア時代の見事な建築を見ることができる。
ペルージアはまわりの平野よりぐんと高くなっている丘の町だ。丘を半ば登ったところにパルティジャーニ広場があるが、バスはここのバスターミナルに駐車し、旧市街には入れない。
ここから丘の上の旧市街へ入るために、まず、駐車場前のエスカレーターに乗る。次に巨大な中世の地下遺跡(パオリーナ城塞)の中を貫いているエスカレーターに乗り換え、 旧市街の中心部を目指す。遺跡の中を、次々に乗り継いで上って行くと、高台のイタリア広場に出た。
最初のエスカレーターを降りた場所
ここから反対方向、10数メートル坂を上った先に、
地下遺跡(パオリーナ城塞)のエスカレーター乗り場がある
地下遺跡(パオリーナ城塞)
地下遺跡に設置されたエスカレーター
イタリア広場をはじめ、旧市街では、丁度"ユーロ・チョコレート・フェスティバル"が開催されていて、多くの人で大変なにぎわいだ。
ユーロ・チョコレート・フェスティバルでにぎわう旧市街
イタリア広場から北へ広い通りが伸びていて、その突き当たりが11月4日広場だ。
11月4日広場
Photo credit: Luca Vanzella
広場のまんなかにフォンターナ・マッジョーレ(大いなる泉)、その向かいに大聖堂がある。 フォンターナ・マッジョーレを飾っている彫刻群はニコラ・ピサーノ とその子ジョヴァンニ・ピサーノ の作。
フォンターナ・マッジョーレの彫刻
古い歴史を誇るペルージアの街、その痕跡を辿るため、大聖堂裏の石畳の狭い坂道を下る。中世の石造りの街並みが続く道を進むと、門を通り抜ける。
門を出たところで振り返って見ると、何気なく通ったそれが、壮大な門であったことに驚かされた。これはエトルリア時代の町を囲んでいた城壁の門である。 この門は紀元前3世紀に造られ、下半分は当初の石組みのままだ。上半分は紀元前40年にローマ人が修築した時の石組みであり、 アウグスタ・ペルージアという刻印が見られる。いちばん上には16世紀に造られたルネサンス式の優雅なロッジャ(柱廊付の建物)が乗っている。 エトルリア時代の城門の中でも、現存する最も優れた記念碑的なものだといわれている。
エトルリア門
アウグスタ・ペルージアの刻印
エトルリア門を出てすぐ左側にペルージア外国人大学の建物がある。大学の左脇に沿った細い坂道を下る。道の左側はエトルリア時代の城壁跡が残る。 さらに進み、アーチ門をくぐると目の前に中世の水道橋のアーチが現れる。その手前を左折し、水道橋に並行して走る通り(アッピア通り)を進むと間もなく坂道となり、 つきあたりの閉鎖された扉の手前で水道橋と合流している(水道橋はここまで)。かつて水道橋はこの扉の先にあるエトルリア時代の地下トンネルをとおり、 終点は11月4日広場のフォンタナ・マッジョーレ(大いなる泉)であった。
エトルリア門とペルージア外国人大学
Source:The street view of Google map
ペルージア外国人大学脇の散策路入口
Source:The street view of Google map
散策路に入る
Source:The street view of Google map
散策路の左側に残るエトルリア時代の城壁跡
Source:The street view of Google map
アーチ門
その先に水道橋のアーチが見える
正面にアッピア通りと水道橋の合流地点が見える
この水道橋の起源は古く、古代ローマ人によって建設されたが、中世(13世紀半ば)に水道橋全体が拡張された。 しかし、19世紀半ばにさまざまな事情で水を供給するという機能は廃止され、旧市街と丘の下にある村をより簡単につなぐための歩道に変えらた。 そのおかげで、道が見え、さらに訪れることもでき、まさに絵になる景色が広がる遊歩道として、いまやペルージアで最も人気のある場所の一つになったのだという。
水道橋の始発地点から街を眺める
遊歩道となった水道橋
遊歩道から眺める景色
坂の頂上(アッピア通りの終点)の門まで登り振り向くと、ここはさらに絶景だ。アーチの向こうに広がる街並み。アーチの下の風景も楽しめ、そこに水道橋も見える。 エトルリアの時代、古代ローマ時代、中世そして現代が混在する不思議な空間はここで終わり、この門を抜けると、また旧市街の人混みの中に戻る。
坂の頂上(アッピア通りの終点)
坂の頂上からの絶景1
坂の頂上からの絶景2
チョコレートフェスティバルで賑わう中心街へ戻る前に、裏通りにある老舗のチョコレート店に立ち寄る。店内に一歩足を踏み入れると、色とりどりのチョコレートが目に飛び込んでくる。 大きなガラスケースの中にも宝石のように並んでいる。
チョコレートだけではなく、観光客がたびたびこの店内にあるものを見にやってくるという。それは紀元前3世紀のエトルリア時代に建設された内壁(店内の壁および天井部分)、 そして床下には古代ローマ時代に建設された道の一部が残されているからだそうだ(画像はないが、入り口ドア付近)。
チョコレートショップ・タルモーネ (Talmone)
タルモーネ店内
Source:The street view of Google map
チョコレート店を出て雑踏の中を町の中心に向かう。 次の訪問先は、精巧な寄木細工で装飾されたかっての 商人組合が入る建物だ。商人組合はプリオーリ宮の1階にある。
商人組合入口
寄木細工で装飾されたホール1
寄木細工で装飾されたホール2
隣接する両替人組合(Collegio del Cambio)も訪問の予定であったが、休館時間にあたり残念ながら見ることはできなかった。
この日は、ペルージアの長い歴史を辿る散策や、珍しい寄木細工装飾のホールの見学、さらには、雑踏の中夢中になってお土産のチョコレートを買ったことなどの印象が強く、 昼食はどこで何を食べたかなど、すっかり忘れてしまっていた。
ペルージア滞在の最後は、あの歴史を辿る散策路の反対側に位置するイタリア広場のテラスから、美しいウンブリアの田園風景を堪能した。
ウンブリアの田園風景
ペルージアを発ち、アッシジに向かう
聖フランチェスコの町・・・
アッシジは聖フランチェスコゆかりのキリスト教信者の巡礼地。
荘厳なる聖フランチェスコ聖堂内部を飾る巨匠ジョット、チマブーエ、マルティーニ、
ロレンツェッティらのフレスコ画の数々は中世美術史上でも重要だ。
古代ローマ時代からの歴史あるこの街は、
ウンブリアの美しい自然と、聖人が説いた平和の教え、
そして後世の建築・美術の基礎ともなった宗教建築物群とが一体化した
精神的、芸術的な美しさを秘めた場所だ。
聖フランチェスコ を抜きにしてアッシジを語ることは出来ない。
小高い丘の上の斜面にひろがる町アッシジ、そこに、聖フランチェスコの功績を称えるために建設されたサン・フランチェスコ聖堂がある。 カトリックの修道士として自ら極貧を貫き、清貧、悔悛と「神の国」を説いた聖フランチェスコは、中世イタリアの最も著名な聖人のひとりである。 また、フランシスコ会 の創設者でもあった。
アッシジの聖フランシスコ
Image:コンベンツアル聖フランシスコ修道会
アッシジに到着早々、待ち合わせをしていた日本人の神父さんに、サン・フランチェスコ聖堂内を案内していただく。
聖堂の建物は1228年に始まり、1253年に一応の完成を見たが、その後も工事は続けられ、ロマネスク からゴシック に移っていく時代の様式を示している。さらに時代が下がってルネサンス式の部分もある上下2つの聖堂が重なりあう形になっている。
今日は、下の聖堂を案内していただく。下の聖堂は岩を掘って作られており、窓が少なくてほの暗く、荘重な感じである。 天井のヴォールトを含めて壁面を覆い尽くしているフレスコ画が荘重な感じをさらに深めている。
下の聖堂への入り口
下の聖堂のヴォールトと壁面を覆い尽くすフレスコ画
Source:Google Map 360°ビュー
聖堂内は巨匠たちの手になる壮麗なフレスコ画の饗宴だ。なかでも印象深いのはジョット の「ノリ・メ・タンゲレ=我に触れるな」、チマブーエ の「天使と聖フランチェスコに囲まれた聖母子」、シモーネ・マルティーニ の「聖女マーガレット」、ピエトロ・ロレンツェッティ の「聖母子」など。最後の「聖母子」は母と子がジット見つめあい聖フランチェスコを指差している情感溢れる作品で、この壁面に夕日があたる時はことに美しいため 「夕日の聖母」という異名がある。
チマブーエの「天使と聖フランチェスコに囲まれた聖母子」
ジョットの「イエスの生涯」連作の一部
「我に触るな」
シモーネ・マルティーニの「聖女マーガレット」
ピエトロ・ロレンツェッティの「聖母子」
下の聖堂を覆う華麗なフレスコ画の画像と説明は☛ こちら。
下の聖堂からさらに地下へ降りて行くと、聖フランチェスコの遺骸を安置した廟墓がある。
聖フランチェスコの廟墓
本日の参観はここまでで、サン・フランチェスコ聖堂の真向いにあるホテル・スバシオにチェックインした後、夕食にでる
トラットリア・パロッタ(Trattoria Pallotta) にて、先ほど聖堂を案内してくださった神父さんを交え夕食
トラットリア・パロッタ
トラットリア・パロッタで神父さんと歓談
Photo credit: E.Agematsu
ホテル・スバシオ (Hotel Subasio) 泊。
ホテル・スバシオ
[10月21日]
早朝のサン・フランチェスコ聖堂
朝食後、アッシジの文化遺産を訪ねる
聖堂を背にホテル前で
サン・フランチェスコ聖堂と旧市街の中心にあるコムーネ広場を結ぶ通り"サン・フランチェスコ通り”は、上聖堂の正面広場が出発点だ。 今日は日曜日ということで、聖堂の正面入り口前の広場は午前中に行われる礼拝に集う人々でごった返している。
われわれはそれとは反対に、緩やかな登りになっている通りを歩いて、旧市街の中心にあるコムーネ広場に向かう。 イタリアのどの町の旧市街もそうであるが、アッシジも坂の街で、ことに横丁はほとんどが急坂や石段ばかり。 道幅は両手を広げたくらいしかないが、それは「荷を背にしたロバが何とかすれ違えるだけの道幅」であり、中世の昔からずっとこうだったのだという。 坂道や石段に沿って古さびた石造りの家々が並び、ところどころから緑樹や花が顔を覗かせている風景は本当に絵のようだ。 両側の家がくっつき合って、その下がトンネルのような道になっているところも多い。
サン・フランチェスコ通りの長い坂を登りきると、目の前にコムーネ広場が広がる。
坂を登りきる
コムーネ広場はウンブリア人の時代から町の中心広場だったところだ。 南側にはコムーネの政庁だったパラッツォ・コムナーレ(14世紀)があり、 今なお市役所絵画館として使われている。北側にはコムーネの高官ポデスタの役所と住居だったパラッツォ・デル・ポデスタと、 コムーネの塔(ともに13世紀)がある。また、地下には古代ローマの遺跡フォロ・ロマーノがあり、そこに広がるのは壮大な古代ローマの世界だ。
コムーネ広場
Source:Google Map
コムーネの塔に接してコリント式 の石柱が6本並んでいるのは知恵の女神ミネルヴァの神殿だ。 紀元前43年~紀元14年に創建されたもので、現在はこのように前廊だけが残っており、教会に転用されている。 聖フランチェスコの青年時代のエピソードを描いた前記の ジョットのフレスコ画にも、背景にこのミネルヴァ神殿が描かれている。
コムーネの塔とミネルヴァの神殿
コムーネ広場から聖キアラ の眠るサンタ・キアラ聖堂に向かう。淡いピンクと白の縞模様が印象的な聖堂だ。 1257年から65年にかけて造られ、本体はロマネスク式であるが、後にゴシック式で増築された部分もある。 サン・ダミアーノの教会で聖フランチェスコに語りかけたと伝えられている「十字架のキリスト」があり、地下には聖女キアラの遺骸が安置されている。
サンタ・キアラ聖堂
聖堂内部
Source:Wikipedia
「十字架のキリスト」
Source:Basilica di S. Chiara
聖キアラの遺骸
Source:Basilica di S. Chiara
聖堂前のサンタ・キアラ広場からは美しい眺めが広がっている。
サンタ・キアラ広場
サンタ・キアラ広場からの眺め
サンタ・キアラ聖堂からコムーネ広場に向かって戻る。両側に土産物店やレストランなどの店が並び、人通りも増えた道は、とても賑やかだ。
次の訪問目的のサン・ルフィーノ大聖堂へ向かう途中、聖フランチェスコが生まれ育った家の跡に立ち寄る。 コムーネ広場に出る手前左のアーチをくぐり、路地奥にあるヌオーバ教会が建つ敷地一帯がそれだ。教会の裏手にある修道院の建物内には、フランチェスコの実家でベルナドーネ一家の生活区域 および父親に監禁された「牢獄」と呼ばれる地下室や父親の仕事場跡などが残されている。
アーチをくぐり、路地に入る
聖フランチェスコの生家の外観
聖フランチェスコの生家(内部)
Source:Google Map 360°ビュー
聖フランチェスコの父ピエトロ・ベルナドーネの仕事場
(ここでフランシスは父ピエトロと一緒に織物や布を売っていたという)
Source:Google Map 360°ビュー
父親に監禁されたといわれる、「牢獄」と呼ばれる地下室の小部屋
さて、聖フランチェスコの生家を出てサン・ルフィーノ大聖堂 へ。コムーネ広場から狭い坂道を登っていくと、大聖堂がある。
サン・ルフィーノ大聖堂
大聖堂内部
古代末期に起源を持つが、現在の建物は1144年の再建である。大聖堂の地下には、3世紀の異教ローマ時代の石棺が置かれている地下室がある。 ここには、ローマ時代の井戸や、10世紀のカロリング王朝 時代の回廊跡もある。
石棺がある地下室
Source: Museo Diocesano e Cripta di San Rufino Assisi
ローマ時代の井戸
Source: Museo Diocesano e Cripta di San Rufino Assisi
カロリング王朝時代の回廊跡
Source: Museo Diocesano e Cripta di San Rufino Assisi
サン・ルフィーノ大聖堂近くの路地奥にあるレストラン、ラ・ランテルナ (La Lanterna Ristorante Pizzeria)で昼食をとる
リストランテ ラ・ランテルナ
昼食後、いくつものアーチトンネルの階段や坂を下り、通りや路地の風景を楽しみながら、午後からの参観のため聖フランチェスコ聖堂に向かう
聖フランチェスコ聖堂の上の聖堂は天井が高く、窓が大きくて、非常に明るい。
上の聖堂
この聖堂も、多くのフレスコ画で飾られているが、中でも最も重要な装飾は、 身廊の下部に沿って若き日のジョットが描いたとされる28枚(うち25枚が『聖フランチェスコの生涯』、3枚が『新約聖書のエピソード』)のフレスコ画である。 中心の場面の前後に建物や自然物を配置して奥行きを出すことを試み、人物の動きや姿勢、表情などによって生き生きとした存在感を画面に 与えることに成功している。ジョットのこの大胆で新しい試みはルネサンスに至って結実し、次代の絵画表現の劇的な出発点となったといわれている。 その迫力に満ち、清澄な美しさに溢れたこの傑作を見るために、世界中から多くの人たちがアッシジにやってくるのだという。
Source:Google Map 360°ビュー
ジョットの連作、『聖フランチェスコの伝説』の一部
『小鳥たちに説教する聖フランチェスコ』
上の聖堂を飾るフレスコ画の画像と説明は☛ こちら。
ホテルにほど近いレストラン、リストランテ・ダ・チェッコ(Ristorante Da Cecco)で夕食
[10月22日]
朝食後、アッシジを発ちこの旅の最後の訪問地、オルヴィエートへ向かう
ウンブリアの美しい平野を1時間ほどドライブすると、小さな湖(コルバーラ湖)が見える
湖をわたりさらに進むと、オリーブとブドウの畑に囲まれた小高い丘の上に聳える、巨大な城塞が姿を現わす
オルヴィエートだ!
美しい大聖堂と白ワインが自慢・・・
断崖絶壁の上に広がるオルヴィエートは城壁に囲まれ、
霧が立ち込めるとまるで天空の城のように見える。
エトルリア時代に造られたこの城塞都市は、エトルリア人からローマ人に受け継がれ、
中世にはローマ法王領として、度重なる戦乱から法王を守るための堅固な城砦であった。
この町が世界に誇るものは眺望の他にも二つある。
素晴らしい大聖堂と白ワインがそれだ。
夕日に映える大聖堂は、ファサードを飾るモザイクが金色燦然と輝き、
この世のものとは思えない霊妙な美しさを現出する。
白ワインは、紀元前7世紀ごろからエトルリア人によってつくられていた歴史がある。
中世には、宮廷や法王の食卓でも供され、「ワインの流れる街」と称されたほど。
世界の中でも名の通ったワインの産地として知られている。
紫褐色の凝灰岩の高台に築かれているオルヴィエートの町は全体が巨大な城塞のようだ。 天然の城塞のようにまわりがほとんど切り立った断崖絶壁になっている。 ただ、西南側の一部だけが断崖絶壁ではなく、急斜面を成しているが、エトルリア 時代の昔から人々は高台の上にぐるっと城壁をめぐらし、難攻不落ともいえそうな城塞都市造りをしてきた。
エトルリア時代にはヴォルシニイと呼ばれる有力都市であったが、長い間ローマと抗争を続けた末、紀元前280年についに壊滅的な敗北を喫してしまった。 敗残の市民はボルセーナ湖畔の地に逃れて新しい町を造り、それまで住んでいた町をUrbs Vetus(古い町)と呼ぶようになったのがOrvietoという市名の起源である。
9世紀にはローマ法王領になる。地元ローマの豪族達との勢力争いが激しくなり攻められる度に、法王はこのオルヴィエートに逃げ込むのを常とした。 乱世に生きた法王たちは、古代から残っていた城壁を再構築し、ふだんから防備を固めていた。 それほどにオルヴィエートは守るに易く攻めるに難い地だと、頼りにされていたのだ。
オルヴィエートに到着。駐車場前のにあるエスカレーター乗り場から、古代都市の中心広場であったラニエリ広場へ。出口から目と鼻の先にある ホテル・パラッツォ ピッコロミニ(Hotel Palazzo Piccolomini)にチェックイン。
駐車場前のエスカレーター/エレベーター乗り場
古代都市遺跡の中をエスカレーターで上る
エスカレーターの乗降口とホテル
Source:Google Map
ホテル パラッツォ ピッコロミニ
(Hoterl Palazzo Piccolomini)
荷物を預け、早速オルヴィエート大聖堂参観や街の散策に向かう。
ドゥオーモ通り
Source:Google Map 360°ビュー
オルヴィエート大聖堂
夕日に映え金色燦然と輝くオルヴィエート大聖堂のファサードは、その神秘的な美しさで見る者を圧倒するという。
この日は生憎の小雨で、金色燦然と輝くとはいえなかったが、それでもなお大聖堂は、荘厳で美しい姿を見せていた。
この大聖堂は1290年に建設がはじまり、1600年に一応の完成を見たあと、モザイクの制作は18世紀まで続けられた。ファサードの感じはシエナの大聖堂とよく似ており、ともにウンブリア・トスカナ・ゴシック式の最高傑作に数えられている。
ファサードは多くの芸術家の手による装飾で彩られているが、その中でも特筆すべきは、建物の最下段に施された4面の浮彫、 その上に描かれた数々のモザイク画とバラ窓、そして大聖堂入り口のブロンズ扉の周りをとりまくアーチ状の装飾である。
最下段の4面の浮彫りの向かって一番左は旧約聖書の創世記が描かれている。
他の3面はそれぞれ「エッサイの木」、 「イエスとマリアの生涯のエピソード」、 「最後の審判」が描かれている。
「創世記の物語」
4面の浮彫りの上には、きらびやかなモザイク画がある。右下の破風の「マリアの降誕」から最上部の 破風の「聖母マリアの戴冠」まで、聖母マリアの生涯の主要な場面を表している。
「聖母マリアの戴冠」
モザイクの中心となるのは、大きなバラ窓である。薔薇窓の中央にはキリストの顔が彫られている。
大聖堂の入り口に通じるブロンズの扉の周囲には、アーチ状の彫刻的装飾とマラカイト、ジャスパー、ラピスラズリなどの多色象嵌を施したねじり柱が施されている。
大聖堂の側壁はファサードとは対照的に、地元産の白いトラバーチンとブルーグレーの玄武岩を交互に重ねたシンプルなデザインとなっている。
聖堂内の石柱、アーチ、壁体は、外壁と同様すべてトラバーチンと玄武岩の縞模様で装飾されている。
この大聖堂は宗教美術の宝庫ともいわれるが、主なものを挙げると、見事な彫刻付の洗礼盤、 ファブリアーノ作のフレスコ画「聖母子」、イポリット・スカルツァ作の彫刻「ピエタ」、ジョヴァンニ・ディ・ボニーノ作のステンドグラスなどである。
彫刻付洗礼盤
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ作の「聖母子」
イポリット・スカルツァ作の彫刻「ピエタ」
ジョヴァンニ・ディ・ボニーノ作のステンドグラス
南袖廊の"サン・ブリツィオのマドンナの礼拝堂"は、部屋全体がフレスコ画で覆われている。これらは、黙示録を題材にした驚嘆すべきフレスコ画として名高い。
Source:Google Map 360°ビュー
代表作の一つ、入ってすぐ左手の壁面のフレスコ画「反キリストの説法」 の左下隅に2人の黒衣の人物が描かれているが、右側の僧服姿がフラ・アンジェリコ、 左側のこちらを向いている人物がシニョレッリの自画像である。
「反キリストの説法」
左下隅にフラ・アンジェリコとシニョレッリの自画像が描きこまれている
もう一つの代表作、入ってすぐ右手の壁面のフレスコ画「肉体の復活」は、シニョレッリが、男女のヌードの可能性を探りながら、立体的な再現を試みた習作だという。
ルカ・シニョレッリのフレスコ画
「肉体の復活」
ドゥオーモ博物館
大聖堂を出て、隣にあるドゥオーモ博物館 に入る。ここには、 アルノルフォ・デイ・カンピオ 、アンドレア・ピサーノ 、シモーネ・マルティーニ などの絵画、彫刻やローマ時代の出土品や大聖堂のコルポラールの礼拝堂から移設された聖遺物箱などが収められている。
ドゥオーモ博物館
香炉を焚く天使
聖母子
聖母子と天使
聖体布を納めた聖遺物箱
博物館を出て昼食をとるため、大聖堂広場からほど近いレストランに向かう
途中には、色美しい陶器を売る店が並んでいるが、陶器は白ワインとともにこの地方の名産なのだ
路地を入ったところにあるレストラン、トラットリア・ラ・ペルゴーラ (Trattoria La
Pergola)で、料理を楽しみつつ、特産の白ワインも堪能した
トラットリア・ラ・ペルゴーラ (Trattoria La Pergola)
Photo credit: M.Abe
昼食後は、趣のある家々が立ち並ぶ閑静な路地を歩き、地下洞窟の見学に向かう
地下洞窟
オルヴィエートの地下には約1200もの洞窟やトンネルがあるといわれている。この地下洞窟は紀元前のエトルリア時代からあると言われ、 中世の時代にはワイン製造やオリーブオイルづくり、またハトの飼育小屋などに利用されていた。 とくに、食料調達が難しかったこの地にとって、鳩は大事なタンパク源であったという。
ワイン醸造所
オリーブオイル製造所
ハトの飼育小屋
地下洞窟を出て、さらに小道や路地を気ままに歩く。おしゃれな街並や魅力的な風景が、目を楽しませてくれる。
夕方なると、そこ此処にオレンジ色の柔らかい光が灯り、昼間とはまた違った美しい街の表情を映し出す。
ホテル パラッツォ ピッコロミニ
一旦ホテルに戻ったあと、ホテルの目のまえにあるレストラン、 アル ポッツォ エトルスコ (Al Pozzo Etrusco)で夕食
ウンブリアの伝統的な料理を満喫し、ワインに酔いしれた晩餐であった
アル ポッツォ エトルスコ
ホテル・パラッツォ ピッコロミニ(Hotel Palazzo Piccolomini)泊
ホテル・パラッツォ・ピッコロミニは、16世紀末から20世紀初頭までピッコロミニ教皇家が所有していた宮殿であり、
また、地下にはエトルリア時代の遺跡が眠る歴史的な建物で、この旅の最後の滞在場所に相応しいホテルであった。
ギャラリーは☛こちら
地下レストランへの階段途中から、エトルリアの遺跡を見ることが出来る。
[10月23日]
朝食後、 ホテルから徒歩1分のサンジョヴァンニ広場からエレベーターで駐車場まで降りる。
ホテル前にある方向指示版
サンジョヴァンニ広場のエレベーター乗り場
サンジョヴァンニ広場からの眺め
数多の感動を胸に、珠玉のような街々に別れをつげ、帰国の途につくため、ローマに向かう
アペニン山脈に沿ってローマへ
午後、ローマを出発 ミュンヘン経由で成田へ
CLUB TRAVELERS
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